(池田晶子記念)わたくし、つまり Nobody賞

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(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞

講 演

2023年3月29日

第16回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞受賞記念講演

「アスリートとして経験し、研究者として叩き上げる」

町田 樹

Ⅲ. 知らず知らずのうちにメビウスの輪を歩いていた私

 そして話は少し変わりますが、実は、この8年ほどの期間、学問というフィルターを駆使して、アスリートとして得た経験を思考や言葉に変換する作業を続けていくうちに、私はものすごい発見をしました。それは、「アスリートは研究者である」ということです。どういうことか──。

 ここでもう少しだけ私の過去についてお話しします。中学から高校にかけて、私は学業をそっちのけにして、フィギュアスケートに明け暮れていました。理由は、どうしても中学・高校の勉強に面白みを感じることができなかったということと、スポーツに頭脳は関係ないから勉強する時間があったら、その分練習した方が良い、と思い込んでいたからです。愚かながら、かつての私は「スポーツと学業」、あるいは「肉体と知性」を二つに区別して、それぞれが独立して関係のないものだと断定してしまっていました。つまり文武両道とは真逆の道を盲信していたということになります。
 そうした私のアスリート人生は、実に山あり谷ありでした。もう少し正確に言うと、山1割に対して谷が9割といった感じで、困難だらけでした。私は困難や壁にぶつかるたびに、悩んでは解決を試み、失敗してはまた悩みといった具合に、もがき苦しみながら試行錯誤を続けて、なんとか一つ一つの問題を克服してきました。

 そのようなアスリートのキャリアに終止符を打ち、いまはアカデミアで研究する日々を送っているわけですが、アスリートだった頃の私の行動や思考には、学術的に裏付けの取れるものが非常に多いということに気がつき、驚く瞬間がたくさんあります。例えば、研究者であれば誰もが日々実践している思考の方法に、「帰納法と演繹法」があります。アスリートであった頃の私は、帰納法と演繹法という言葉も知らなければ、そのような考え方の仕組みも勉強したことがありませんでした。しかし、いろいろな困難を前にて試行錯誤しているうちに、私は自然とこの帰納と演繹の思考方法を導き出し、たくさんの経験から理論を抽出したり、抽出した理論を実践へと敷衍したりしながら、より良いパフォーマンスを追い求めていくようになりました。それで後から論理的思考方法を勉強していて帰納と演繹という言葉に出会い、「あぁなるほど、アスリートの頃に導き出したあの思考法は、帰納と演繹と言うのか」と初めて辻褄が合うのです。

 他にもライバルに勝てなかったり、スランプに陥って何もできなくなってしまった時に、悩みに悩んで導き出した考えが、不思議と、デカルト(René Descartes, 1596-1650)やショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer, 1788-1860)、はたまたゴータマ・ブッダといった哲学者が何百年も前に説いた思想と共通していたりすることもありました。いまお話ししたことは、ほんの一例に過ぎませんが、研究しているとこうした気づきや発見が次々に得られるのです。つまり何が言いたいかといえば、研究者の仕事は日々思考し真理を究明することですが、アスリートもまたアプローチは違えど、知らず知らずのうちに真理を追究してしまっているということです。勿論、私は自身のスポーツ経験からデカルトやブッダに匹敵するような、すごい思想を導くことができたと自慢したいわけでもなければ、勉強せずともアスリートとして肉体を動かしていさえすれば、自然に賢くなれると言いたいわけでもありません。そのようなことは露とも思っていません。むしろその逆です。アスリートの頃に分断してしまっていた「スポーツと学業」や「肉体と知性」は、巡り巡って実はコインの表裏だったのです。

 本日お贈りいただきましたこのメビウスの帯は、そのことを何よりも象徴しているように思います。池田晶子さんも、『14歳からの哲学』(トランスビュー、2003年)というご著書の中で、メビウスの輪をこのように語っておられます。

 「メビウスの輪」を知ってるね。内側を辿って行ったら、そこは外側だったというあれだ。君は、「自分の内側」と言った時、体や心の内側のことを思うね。でも、その内側が、外側の自然法則や快感原則によって動いているなら、その内側って、じつは外側のことじゃないだろうか。内って、外なんじゃないだろうか。
〔池田晶子『14 歳からの哲学──考えるための教科書』トランスビュー、2003年、69頁〕

 実のところ、内と外はひとつづきに繋がっている。これを私の身に置き換えると、アスリートとして培ってきた実践知と、研究者として研鑽している学問知はメビウスの輪のごとく連続している、ということができると思います。

 しかし、この私がそうであったように、多くのアスリートがこの真理を知ることなく競技を引退します。それどころか、アスリートは時折、身体を動かすことにしか能がない脳筋などと揶揄されたりすることがありますが、「アスリート自身も自分には考える能力がない」と卑下してしまうことが多いのです。きっと私は明日を生きるアスリートに向けて、「本来アスリートという存在は思考の人で、他の誰でもないアスリートであるあなたにしか書けない言葉があるのだ」ということを伝えたくて、『若きアスリートへの手紙』を書いたのだと思います。
 ただ残念ながら、この御時世、本に書きさえすれば、自然に広く社会に伝わっていくという時代ではなくなってきています。私は本というメディアを至高のメディアだと信じており、とても大切にしていますが、多種多様なメディアが続々と登場している昨今、本以外のメディアも上手く使っていかなければ、伝えたいことが伝えたい相手に伝わらなかったりします。そうしたことから、私は研究し著作にまとめたことの成果を、テレビや新聞、動画投稿サイトなどの多様なメディアでも発信しています。

 大変ありがたいことに今日、この場には、私の志に共感し、言論活動を支えて下っている出版・報道陣の方々も多くお越しくださいました。この講演の冒頭の方で、マスメディアを批判するようなことをお話ししましたので、もしかしたら「なんだ町田が自分たちをこの場に呼んだのは、公の場で文句を言いたかったからか」、と勘違いされておられるかもしれません。それは本意ではありませんので、この場をお借りして誤解を解いておきたいと思います。
 言葉というものは、決して一人では社会に発信することができません。私の言葉を信じ、そしてその言葉を共に社会へと届けてくださっている出版・報道関連の全ての皆さまに、深く感謝を申し上げます。

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