(池田晶子記念)わたくし、つまり Nobody賞

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(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞

講 演

2023年3月29日

第16回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞受賞記念講演

「アスリートとして経験し、研究者として叩き上げる」

町田 樹

Ⅱ. アスリートとして経験し、研究者として叩き上げた私の言葉

 さて、私はこうしていま言葉を生業とする研究者の道を歩んでいるわけなのですが、そもそも、スポーツの世界で言葉ではなくこの身体ひとつで勝負してきた私が、なぜ言葉を紡ごうと思うに至ったのか──。それは、現代社会に流布している「スポーツを語る言葉」があまりにも貧弱だからです。

 出版不況が叫ばれ、非常に残念なことに本に関する情報量が急激に減少していく一方で、スポーツはそうした問題とは無縁であるように思います。というのも、報道番組や新聞を見ても、必ずスポーツコーナーがありますし、インターネット上でもスポーツに関する情報が絶え間なく飛び交っているからです。昔からいまに至るまで、スポーツ情報はマスメディアを通じて、止めどなく発信され続けています。
 ところが、このマスメディアというスポーツの語り手は、どうしてもスポーツやアスリートを定型的な物語や言説の中に押し込めようとする傾向にあります。まさに東京オリンピックは、そうした物語や言説のオンパレードでした。例えば、アスリートの努力の道のりが「感動物語」や「英雄伝説」のような安易な物語に当てはめられて報じられたり、あるいは、スポーツの存在価値が政治や経済との兼ね合いだけで論じられてしまったりと、現代のスポーツ報道をめぐる問題が噴出していたように思います。

 しかし実際には、そのような物語や言説を生産する以前に、もっと語られるべき現実や、もっと考えられるべき問題がスポーツ界には山積しています。私はそれらを、一人のアスリートとして、直接この目で見てきました。確かに、かつてアスリートであった頃の私は、スポーツ界の中でもとりわけ小さな分野であるフィギュアスケート界の中でしか活動していません。しかしその小さな世界の中だけでも、行き過ぎた勝利至上主義による厳しいトレーニングで心身の健康を大きく崩してしまう選手がいたり、練習場が経営難等の理由から次々に閉鎖されて路頭に迷うスケーターが続出したり、あるいは、フィギュアスケートはスポーツであると同時に踊って表現する身体運動文化なのですが、せっかく心血を込めて表現したとしても、勝つか負けるか、技が成功するか否か、といったアスレチックなことしか取り上げられず、スケーターの表現活動が正当に評価されなかったり──と、色々な問題を目の当たりにしましたし、中には実際に自分が当事者となる問題があったりもしました。ともすれば、メディアに映るスポーツ界は非常に華やかに見えるかもしれません。しかし、その舞台裏にはいまだ語られることのない問題が多数存在しているのです。
 私は、競技者の頃からそうした問題をなんとかしたいと思っていたのですが、いかんせん3歳から競技の世界に身を置いていた自分は「井の中の蛙」状態だったのでしょう。たとえ問題意識があったとしても、その問題をどのように考え、そして言葉にすればよいのか、一切わかりませんでした。そこで私は意を決して競技を引退し、研究の道を歩きはじめることにしたのです。

 ただ私が探究したいと思ったフィギュアスケートやスポーツにまつわる問題は、一筋縄に解決できるものではありませんでした。例えば、フィギュアスケーターの表現が正当に評価されないという問題一つをとってみても、これを解決するためにはまず、表現とは何か、そしてその表現をどのように批評すればよいのか、ということを「美学」や「芸術学」、あるいは「文学」を勉強しながら考える必要がありました。
 そうして色々と考えていくと今度は、本が知的財産として著作権法で保護されるように、フィギュアスケーターの表現も著作物として認められるのだろうか、という疑問がふと湧いてきました。この著作権法という法律の問題について調べてみると、「スポーツである限りいかなるパフォーマンスも著作物にあらず」という考えが社会通念となっていることがわかりました。しかし、スケーターが行っている表現というのは、文学や美術や音楽やダンスなどの著作権法で保護されている芸術ジャンルの表現と何ら変わりません。となれば、たとえフィギュアスケートがスポーツのジャンルに属するとしても、その表現は著作物として認められるべきだと考え、私は「著作権法学」の研究にも着手することになります。
 すると次第に、表現をきちんと評価したり、スケーターの表現を著作物として扱うためには、過去に創作されたフィギュアスケーターの演技がいつでも見返せるようなアーカイブが必要となる、という事実に私は気がつきはじめます。例えば、本はアーカイブがしっかりと構築されているため、図書館に行きさえすれば、これまで出版されてきたいかなる本にもアクセスでき、かつ何度でも読み返すことができます。ところが、フィギュアスケートの分野においてスケーターの演技映像を蓄積しているアーカイブはまだ確立されておりません。では、どうすればアーカイブを構築することができるのか、とやがて私は「アーカイブズ学」の研究にも取り組むようになりました。勿論、その傍らでスケートリンクの経営問題についても考えなければなりませんので、「経済学」や「経営学」の勉強も同時進行で行っていました。

 ──と、事の経緯をお話しすればキリがないのですが、このように問題が次なる問題を呼んでいくのです。それだけ、フィギュアスケート界やスポーツ界には考えなければならない問題が存在している、ということです。
 しかし一方で、こうした多岐にわたる問題を自分一人の力だけで考えることはできません。いま一連の経緯をお話しする中だけでも、私は「美学」「芸術学」「文学」「著作権法学」「アーカイブズ学」「経済学」「経営学」といった具合に、計7つの学問分野を挙げました。私はこれらの学問を一人で勉強して習得できるような秀才ではありません。そのため私は大学院に進学してからいまに至るまで、各学問領域を牽引されておられる先生方よりご指導を賜りながら、一つ一つの学問を勉強し、一つ一つの問題を順次研究してきました。

 こうして私が取り組んでいる問題の多くは、かつて私自身が実際にアスリートとしてスポーツ界、あるいはフィギュアスケート界の中で活動したからこそ、発見することができた問題なのだと思います。きっと世の中には、体験しないと見えてこない問題や、経験しないと語り得ぬことがたくさんあるのです。その意味において、実際に「経験する」ということは非常に大事です。しかし一方で、ただ経験しただけでは、たとえ問題が見えたとしても、たとえ語りたいことがあったとしても、それを言葉にできるとは限りません。現に、私はアスリートだった頃、経験を言葉にする術を持っておりませんでした。経験を思考や言葉へとつなげていくためには、何かフィルターのようなものが必要なのです。さながら挽きたてのコーヒーを入れるように、フィルターに経験をゆっくりと通していくことで、深く思考を展開させることができたり、豊かな言葉を紡ぎ出すことができるようになるのだと私は思います。勿論、このフィルターが何に該当するかは人によって様々ですが、私にとっては学問であったということです。

 この授賞式には、こうして私に学問という「経験を思考や言葉にする術」を授けてくださった諸分野の先生方にもご臨席を賜っております。先生方のご指導がなければ、私はいまも経験を言葉にできずもがいていたでしょうし、ましてこのNobody賞を受賞することもなかったと思います。この場をお借りして、ご指導くださいました全ての先生方に深く御礼を申し上げます。

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