(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞

講 演

2024年3月27日

第17回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞 受賞記念講演

「暴力に抗して」

永井 玲衣

永井玲衣

対話は試みそのものです。わかりあおうと手をのばしあおうとする、つねにすでに共に生きている他者と、ききあうことで、また共に生き直そうとすること。そこには「他者」などと抽象的にあらわされるものはいません。ひとりの人間がいます。さまざまな抑圧にさらされながら、押し返すようにして生きるひとびとが、息づいています。わたしたちはすぐに集えなくなってしまうからこそ、わからなさをたっぷりとふくんだ問いが、わたしたちをつないでくれます。

こうして、対話の場をつくることは、対話を拒む社会に対して緊張をつくり出します。対話は絶えざる力の行使によってようやく維持、拡大、深められていくものです。放っておいても、対話は出現しません。だからこそ、試みるものです。

ですが、それは勇ましく、ひとりですすむものではありません。対話の場をつくるよう、たえずいざなってきたのも、また他者によってでした。きかれていない声があり、きかれようと呼びかけられているからこそ、対話は生まれようとするのです。わたしは、呼びかけられ、さまざまな場に足をはこぶことによって、ひとびとがきき合える場、ここなら生きてもいいと思えることを阻む、さまざまなものに出会いました。わたしはやはり、本のなかだけで生きていられなくなりました。

共に考え、問いをなげかけ、対話をすることは、はやすぎる時間の中で、ただ立ち止まる時間というよりも、社会やわたしたち自身の「修復」の意味も持ち始めました。言葉を重ね、生き直そうとすること、集いなおそうとしつづけることが、修復でした。

ようやく、わたしの水中をただようような語りが、今回のタイトルにかえってきます。今日は「暴力に抗して」というタイトルでお話をしたく、ここに立っているのでした。
わたしたちはすでに共に生きているという事実を、ないものにすること、あるいは見ないふりをするもの、それは暴力です。暴力は言葉をうばいます。表現をうばいます。とりかえのきかない考えを育むひとりの人間を消しさろうとします。
だから、対話は、暴力に抗することです。哲学は、暴力を拒むことです。

わたしたちはいま、イスラエルによるパレスチナのジェノサイドという、すさまじい暴力を目の前にしています。先に引用したメルロ=ポンティは、「哲学は生の存在との接触を求め、そのうえ、そこを決して立ち去らなかった人々から学び取っていく」と書いています。暴力は、生の存在との接触を求める哲学のあり方とは、けっして共存し得ない方法です。わたしはこれを批判しなければなりません。「わたくし、つまりNobody賞」が、ひたすら考え、言葉で表そうとする営みに価値をおく賞であり、今ここでお話しする機会をいただいた今、さらに強くそう思います。

それだけではありません。昨日のことです。それはほんの十数時間前です。日本政府は高い殺傷能力を持つ戦闘機の輸出を解禁する方針を閣議決定しました。沖縄、南西諸島の軍事要塞化はすすみ、この世界に核兵器はありつづけています。差別や性暴力、それらはなくなるわけがないと、あきらめの対象にさえなっています。
大きな力によって押し流され、身近な暴力さえ否定することができなくなり「しょうがない」という言葉のもとに忘却されていくのならば、やはりそこに抵抗しなければなりません。大江健三郎は「核時代に、想像力を頼りに生きている」と書きました。わたしは、彼の言葉に連なりながら、暴力の時代に、言葉を頼りに生きねばならないと思います。

対話もまた暴力になりうる、とひとは言うかもしれません。もちろん言葉の暴力というものがあります。さまざまな理由で対話がむずかしい状況にあるひともいます。ですが、それがすなわち対話がすべて暴力であるということを意味しません。対話もまた暴力的だ、と結論づけてしまうことは簡単です。では、そうではない対話とは何なのかを考えるのが、わたしたちにできることなのでしょう。

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