神とはなんだろうか。私は昔から神を信じてきた。特定の宗教に属しているわけではないが、幼少の頃から、その神というものにどこか温かいものを感じていた。だがある時、私は神のことをまったく知らないことに気づいた。他者でありながら自身の内面にまで干渉する究極の概念。その正体をここで探そうと思う。
まず、私が思ったのは昔の自分の「現実世界に本当の意味で生きているのは自分のみであり、他者は自身が作り上げた虚像なのではないか」という考えだ。今思えば、幼少期の想像力が原因なのだろうがある意味、本質をついているように考えることができるため、私はこれを軸に問いを進めた。もし他者が虚像であるならば、私達が見ている他者は一体何者なのだろうか。他者は肉体こそ存在しえど自身と同じ生や感覚を有するかは分からず完全な理解もできない。しかし、我々は基本、自身と他者が同一の感覚を持っているように錯覚する。そのような点から私は肉体という器に人間の認識機能が自身の複製を与えたものが他者だと考えた。器を満たす中身と肉体の同化による概念の独立。それによって他者は他者となりうるのだ。
この要素は神にも適応されうると考えられる。神とは、いわば究極の他者だ。また自身の内面に干渉する一つの自我でもある。しかし、自身と他者を両立することは不可能だ。それにもかかわらず神はそれをなしている。
なぜそれは可能なのだろうか。私は人間の認識機能の発見を行うことができるならばそれに似た行為を行えるだろうと考えた。人間の認識機能というのは基本的に他者を構築し世界を創造する機能だ。人間は世界を捉えることはできない。それを疑似的に捉えさせ外部を通して自己の発見に至ればそれは観測可能な唯一絶対の発見。まさしく崇高性を伴う神の器となりうる。超自然性や偶然性はいままで外部における鏡となってきた。外部の物体に中身を与える認識がその鏡らを通し唯一の完全独立概念を発見できれば、それは自身を兼ねながら他者となる完璧な存在の発見。すなわち神の器になると考えた。
次に神の中身。これは信仰によって作られると私は考える。この信仰は宗教的な方の信仰ではなく、人間が自身の経験や知識、思想をもとに形成される思想の軸を信じる事だ。人間は何かきっかけがない限り自身の知識に対して再思考を行うことはなく、また自身が理解・体感していないにも関わらず信じ込んでしまうことがある。例えば、天体観測をしたことがないのに土星の輪を信じている人がいるとすれば、それはその情報に対する信仰と言える。この例は極論だが実際、多くの人が根拠もなく多くの物事を信じている。これは宗教が多く信じられていた古代でも同じだ。神について詳しく知らないにも関わらず、またはその神が自然に対して矛盾を抱えていたとしても、その神を正しいと信仰する。人間は信仰をなくしては生きられぬものだ。例え宗教が無くなろうとも他の概念に乗り移り信仰は行われるだろうしその信仰を本質とする神の概念もなくなりはしない。仮に既存の宗教が消えようとも、今後は科学や思想、死、自由などが神となるだろう。信仰は人類が原初から持ちうる概念の一つなのだ。よく「神は人が作った」と主張する人がいるが、私はそうは思えない。神は人と共に生まれ人と共に育ってきた。確かに宗教は人が作り出したが、宗教は必ずしも神と共にあるわけでは無く、神も必ず宗教と共にあるとは限らない。神とは普遍的な人類の深層概念であり自分という個の象徴なのだ。
(さとう・なるたか)