食べることは私にとって大事な行為だ。ただ単に「食べなきゃ死ぬから」ではないと思う。もっと大きな意味があるのではないか?
人はどう、食べ物の「好き嫌い」を決めているのだろう?
一番に考えたのは味や食感。「どうしてそれが好き・嫌いなのか」を考えると味や食感、材料が一番に出てくる。
私の好きな食べ物は「みたらし団子」だが、それだけで生きられるかと言われたら心も、身体も保たない。人間の本能に基づく食欲は生きるための栄養を摂取することにある。みたらし団子じゃ五大栄養素はおろか、三大栄養素さえバランス良く満たせない。つまり私は人間の本能に逆らってみたらし団子を「好きな食べ物」としているわけだ。
「今までで一番美味しかったもの」は「好きな食べ物」と似ているようだが、大きな違いがあると思う。先程の例だと、自分で買ってきたみたらし団子も、お母さんが作ってくれたみたらし団子も全部私の「好きな食べ物」だ。一つ一つの経験は目立たず、あくまでも「みたらし団子」が主役だ。
しかし、「今までで一番美味しかったもの」は違う。それは今までの人生で一際輝く「思い出」に食べ物が付いてくるような感じ。
私の場合、今までで一番美味しかった食べ物は「コロナ禍におばあちゃんが送ってくれた柿」である。私には柿を味わったときだけではなく、おばあちゃんが一生懸命実を収穫している姿や、段ボールに詰めている姿が浮かんでくる。何より手紙に綴られたおばあちゃんの気持ちが嬉しかった。柿を「今までで一番美味しかったもの」にしているのはいわばバックストーリーなのだ。だから「みたらし団子」のように一言で表せない。「コロナ禍におばあちゃんが送ってくれた」という修飾語が不可欠であり、むしろ「柿」の方が補足なのだ。その設定があるからこそ二度と再現できない唯一無二の食べ物になったのだ。
「死ぬ前に食べたいもの」も「死ぬ前に浸りたい思い出を呼び起こしてくれる食べ物」なのではないか。食べることとは一瞬では終わらない。それまでの裏話とその時の状況がある。我々の記憶に残るのはそれら全てなのだ。
生存目的の食欲だけでは人が食べる意味は説明できない。
栄養摂取ならサプリメントや機能性食品でもできるが、誰もこれだけで生活しようとは思わない。
ここに生物的な「食べる意味」と人間的な「食べる意味」の違いを感じる。栄養の整った食べ物があれば幸せなのか?我々が食べて幸せを感じる食べ物には、栄養が偏っているものもある。それを食べることは、悪いのか?
答えは、「食」がもたらす「満足感」にあると思う。「満腹感」じゃなく「満足感」。我々が人間的に「食べる」意味である。
ある程度吸収しやすい形にすれば食べることができるのに人は食材を切る、焼く、煮る...気づかないうちに「満腹感」と「満足感」を満たすため、我々の日々の生活活動はまわっている。そこに料理する意味があるのではないか?
拒食症という精神疾患がある。日本の痩身傾向に伴い、過度な食事制限を行う人が今も増えている。拒食症を抱える人は「食べること」を見た目を変える手段としてしまったのだと思う。だから栄養成分でメニューを決める、太るから他人との食事を避ける、「空腹」と「満腹」を見失ってしまう。
私は彼らに「食」は「目的」になり得ることを伝えたい。人間的感情を持って食べることは間違ってない、あなたをあなたらしくしてくれるものだと。
世界規模の問題にも同様のことが言える。日本を含む先進国が発展途上国に食料支援をする意義。それは飢餓人口を減らすことだけではない。
我々は食べることがもたらす幸福感を知っているから、より多くの人にそれを経験して欲しいから食料を提供するのではないか?
お腹をすかせて困っているからこそ、心も満たせるような支援がしたい。その希望が伝わり貧しい地域の人の原動力となったとき、初めて目標達成を掲げられるのではないだろうか。
食べることは思い出を象徴してくれる、生活の意義を与えてくれる、人とのつながりを築いてくれる、私をかたちづくる欠かせない営みだと思う。毎食毎食を心に刻んでいきたい。
(おおつか・ゆめ)