(池田晶子記念)わたくし、つまり Nobody賞

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第3回 哲学甲子園 受賞作品

優秀作品

「規則という不自由と自由意志」 舘 来実 氏(16歳)

 規則というのは、この世界に必要不可欠な取り決めである。例えば、法律や条例。人々が安全で快適な生活を送るために作られたものだ。これら規則は私たちの生活に深く根付いており、私たちは規則の下で生きることによって、初めて人間らしい生活を送ることができる。
 その一方で、私たちは規則という絶対的な概念を、一切疑わずに過ごしているのではないだろうか。校則なんかはどうだろう。勉強とは全く関係の無いルールや、行き過ぎたルールが話題になっていることを知っている人も多いのではないか。しかし、それらルールに疑問を感じても「規則だから」疑うことや反発することが許されないという風潮が生まれてしまっている。
 私は、規則の根本的な意義や価値を見直すべきだと思う。規則はどうあるべきなのか、そして規則に対して私たちはどのような行動を取るべきなのかを、これから具体的に論じていきたい。
 まず最初に、本来、規則というものは「縛る」ものではなく「守る」ものである。これを勘違いをしている人は多い。「縛る」規則が世の中に蔓延するようになってから、人々は規則に苦しめられている。例えば「縛る」規則としての具体的な例は、高校のアルバイト禁止や髪型の制限などだと私は思う。確かにアルバイトは学業に支障をきたす可能性があるが、日時を制限するだけでそれ自体を禁止にする必要は無い。むしろアルバイトをすることによって貯金が増え、学生が参考書を買う費用に費やしたり塾に通う費用に費やしたりすることができるのではないか。「縛る」規則ではなく、私たちは「守る」規則を作るべきなのだ。
 しかしそうは言っても、「縛る」規則に対して抗ってもよいのだろうかと疑問に感じる人がいるかもしれない。それに関しては、良識の範囲内であれば問題はないのだ。
 誰もが知っている通り、私たちには自由意志というものが存在する。好きなものを食べ、好きな服を着て、好きなように生きることのできる、生物として大切な意志だ。そして規則というものはこれを制限することで成り立つ。しかし制限というのにも限度がある。危険に通じる行為や相応しくない行為に対する自由を制限するのはもちろん必要だ。しかし生物、人間として大切な趣味趣向、個性に関する自由まで奪っていい訳ではない。いわゆる「縛る」自由のことだ。「縛る」自由に関しては私たちは抗うことができる。人間としての尊厳を失わずに、革命を起こす英雄さながら立ち向かってもよいのである。
 このように、私は私たちの生物としての自由意志を否定する「縛る」自由ではなく「守る」自由が蔓延る世の中になるべきだと思う。規則というのは人間の個性まで縛ってよい訳ではない。私たちには選択できる自由が存在する。何か疑問を感じたら不自由に抗い、自由を再確認し、私たちは「守る」ための規則を活用すべきなのである。
(たて・くるみ)

選評 ▼

◆ 論理的ではあるが、勇ましいのが良い。哲学と言うより、倫理、思想かもしれない。
◆ 池田晶子も「外なる道徳、内なる倫理」と言っていた。国家や法律、社会通念などの外的規制が内心の自由や価値観に抵触するとき、人は苦悩し、整合を試み、あるいは抗うのだと、作者はこの作品で書いている。作者の言う、自由を「守る」とは、闘うの別名であったにちがいない。
◆ 正しく疑うことはむずかしい。疑うと言いながら、ただの反論や糾弾になることもしばしばある。けれども館さんは、人によって受け止め方の異なる「規則」というテーマを、とても丁寧に腑分けして考える。一人で考えながら、独りよがりにならないバランス感覚が見事。
◆ 自分の身の回りに問題に対して素直に向き合い、立ち上がるために考えを述べたこの文章は、自由と意思という人間にとって重要なテーマの心理をしっかりと突いているように感じます。16歳という年齢で「抗う」だけでなく「守る」という視点を持てていることはとても素晴らしいと思う。