言語の発生は、およそ五万年前かその前後といわれているが、私が気になるのは、人間単体での言語の発生部分である。人間は、頭のどの部分から言葉が生まれて、どうやって自分自身を表すきっかけを作るのか?それが知りたいのだ。
私は、今文章を書いているが、目に見えているものがたくさんある。ヘッドフォン、クーラー、扇風機、飼い犬。その目から入ってくる外的情報に、私の頭の中では多くの議論が何者かによって交わされている。クーラーを見れば、「壊れ気味だな」とか「黄ばんでるな」とか「夏だな」とかというように、言葉に表すのことができる思い付きから、言葉に表すことのできない、雰囲気のようなものもある。何やら脳みそが総動員して、その情報を分析しているのか、ヤジを飛ばしているのか。
その、言葉に表せる思い付きはなぜ言葉に現れるのだろうか?そして、なぜ言葉に表せない思い付きはなぜ言葉にならないのだろうか?
言葉は、今までイメージだったものや、雰囲気でしかなかったもの、人が感じる感覚だったものや、状況そのものなどを表すことに成功した。すなわち、自分の感情や感じているこの「体験」そのものを言葉にすることができるのだ。ただし、「クーラー」という情報を言葉にできる原理は、記憶の反射のようなものである。情報を多方面から検証して、それがある知っている言葉に行き着けば、その情報が言葉と結びついて、言語化される。
ただし、私は、記憶の反射としての言葉は、実際に脳みその奥の方から生み出されたものではないと思うのだ。やはり、情報処理は、単なる単純作業の連続に過ぎず、「生み出す」といった行動とは大きくかけ離れているだろう。
ここで、先に言った、感覚や雰囲気といった、外部からの情報として、明示されないものを言葉に表すときに、初めて、言葉というものの深淵に触れることができるのではないか?と、そういう風に仮説を立ててみる。なぜなら、明示されないものは、現実という「モノ」とは大きく分離された、頭の中のお話であり、頭の中で完結しているから、こう私は仮説を立ててみた。
例えば、「今、全身でこの世界を感じています」とか「なんでかわからないけど苦しいです」とか、そういう風に、自分の中にある、自分でもよくわからないものを、ちょびっとしかない自分の言葉で表すという行動に際して、やはり従来のものとは全く本質が違う言語が生まれていると私は思う。
そこで気づいたのは、自分でもよくわからないもの、情報として処理できないものに対して、既に言葉に結びついてる感覚や、雰囲気をあてはめたり、もしくは再定義したりしているのかもしれないということだ。何か、情報として処理できないものよりも、さらに把握できない、認知の範囲を超えた領域が存在して、そこから言葉が供給されるというか、生み出されるというか、はたまた流れ出るというのか、そういった現象が起こっていると、私は観測した。
泡のような概念が、流動性のあるイメージが、常にその領域から放出されて、私たちの言葉を生み出している。領域内にいるときは、単なるイメージでしかないのに、領域から出てきたそのイメージは、逞しくも言葉となって私たちの思考を支えてくれている。
だから、私たちは、イメージ・概念を具現化して、言葉にしたり、作品にしたり、そういったことができるのだ。
言葉がどこから現れるのか?私にとってそれは、全く不可解であった。そして、今、自分にとって少しの進展があった。それは、領域の存在そのものを認知することに成功したからである。
ただし、私は、これから、その領域内に足を入れるどころか、身を投じなければならないと思っている。人間は言葉によって物事を考えるとされるが、その上があるのではないだろうか?概念そのもの、雰囲気そのもの、イメージそのものを用いて、それを言語として、思考を展開するのだ。
そして、その思考は、自らが概念となって、その世界に身を投じる必要があることもわかる。なぜなら、人間にとっての「前提」とは、その人間の頭の立ち位置を決めるものであり、より高度に抽象化された前提は、その先の応用世界をより大きくする。そして、その先に見える美しい世界を感じてみたいと思うのである
しかし、この文章に書かれたことさえ、気づくために随分時間がかかったのだから、次の目標を達するにはまだまだ足らないかもしれないが、これからも、どんどん脳みその蓋を開けていきたい。
(つちや・だいき)