第2回 哲学甲子園 受賞作品

佳作

「当たり前とは何か」 高須 元太 氏(17歳)

 昨日、原っぱで寝転んで夕日を見ていた。すると、家に帰る人々がうつむいて歩き、そして車が急ぎ足気味に長い信号を待つ列に加わり、バイクがにぎやかに車の間を縫って走る──そんな橋に夕日は隠れた。しばらく橋を眺めていると、橋の下から夕日がこちらを覗いていることに気づいた。その時ふと「夜が訪れるのだな」と地平線に消えようとする夕日を見て思ったのだ。

 当たり前なことだ。太陽は沈み、そして夜が訪れる。今まで何千日もこの世界にいて毎日経験してきたことだ。でも、この感触は初めてだった。優しく重い気づきの感触。とても不思議だった。

 あの夕日は、その消えゆく暖かい光は、深い闇の訪れを教えてくれた。太陽は沈み、そして夜が訪れる。この当たり前の気づきは昨日という何の変哲もない一日を彩った。

 なぜこの当たり前の知識をまるで初めて学んだように感じたのだろうか。そもそも当たり前とはどういうことだろう。

 当たり前は常に正しい知識だ。でも、昨日感じたことは「太陽は沈み、そして夜が訪れる」という知識としての不変の正しさではなかった。そこには漠然とした感銘が伴った、知識ではない、ただその瞬間だけに存在する、正しさも言葉もない何かがあったのだ。

 今日、昨日の夕日に出会いに原っぱへ下って夕日を見ていた。でも、いつまでたってもあの優しいまなざしでこちらを見る夕日は現れなかった。同じ場所、同じ時間。でも、同じ夕日ではなかった。あの当たり前はそこにはなかった。

 今はとてもはかない。今は二度訪れないし、今は一度しか生きることができない。当たり前は常に正しい知識のはずだ。でも私は常に変化し、世界は回り続ける。今という私と世界のめぐりあわせは唯一無二なのだ。この無常な世界のこの特別なめぐりあわせを、毎日起きるただの当たり前として片づけてしまうことはとても勿体無い。

 明日は新しい私と新しい世界の一回しか起きないめぐりあわせが起きる。明日の朝、学校へ行く道は一度も歩いたこともない新しい道なのだ。明日会う見慣れた顔も新しい出会いなのだ。明日見る夕日も人生で一度しか見れない夕日なのだ。

 だから、当たり前なんてないべきなのだ。

 私と夕日。私と世界。私たちはこのめぐりあわせとの一期一会を大切にするべきだ。そうすることで、今というはかなさは彩られ、人生という色彩豊かな作品が出来上がってゆく。

 それが生きるということなのだと思う。
(たかす・げんた)