第2回 哲学甲子園 受賞作品

佳作

「『本当の自分』とは?」 宮島 龍樹 氏(15歳)

 最近とある企業のコマーシャルで「本当の自分」という言葉を耳にした。「本当の自分」とは嘘偽りのないありのままの自分のことなのだろうか。私は「本当の自分」という言葉がとても印象に残った。
 中学生のころ、友達と話していた時に友達がこんなことを言っていた。(Aとする。)
「クラスの中にいるときの自分は本当の自分じゃない。友達と一緒にいるときだけ本当の自分になれる。」
 その頃はその発言について特に疑問を感じなかったが、今考えてみると少し疑問に思うことがある。Aはクラスの中の自分は「本当の自分」ではないと言っていたが、クラスの中のAは「嘘の存在」なのだろうか。クラスの中でも外でもAはAであり同じ存在のはずである。それなのになぜ「嘘の存在」「本当の存在」ができてしまうのだろうか。Aの言う「本当の自分」について少し考えてみた。私は、Aは「自分が楽でいられる時」の自分を「本当の自分」と呼んでいるのではないかと思った。Aは「自分が無理をしているとき」の自分は「嘘の自分」だとみなして否定しているのではないだろうか。
 しかし私はその考え方に異を唱えたい。そもそも人間は一つの姿で生きるように決められている生き物なのだろうか。私は、人間は様々な姿を持っている生き物だと思う。私自身だって、家での姿、学校での姿、学校の中でも部活での姿、クラスでの姿とあげてみればきりがないほど多くの姿を持って生活している。このように様々な姿を持つことが当たり前だというのにもかかわらず、自分の中の正しい「本当」の姿というものを作り出し、ほかの姿を「嘘」の姿だと否定することは自らを苦しめているだけだと思う。
 最近では「他者の尊重」だとか「多様性」という言葉が世の中にあふれているが、その中で「本当の自分」という言葉が使われることはとても矛盾していることだと感じる。自分のさまざまな姿を肯定できないままで、どうして全く違う他人の姿を肯定できるだろうか。確かに多くのことを認めて肯定することは難しいし、それが絶対的に正しいものだと私は思わない。しかしそれでも認めようとすることはできると思うし、「多様性」を謳っているのならそれくらいできてほしい。
 熱くなって少し話題からそれてしまったが、ここまで言ったものの「本当の自分」という考え方を完全に否定するわけではない。しかし、正しい自分を作り上げて他の自分を否定するだけではなく、「自分の中の多様性の尊重」という考え方も現代人には大切にしてほしい。
(みやじま・りゅうき)