第2回 哲学甲子園 受賞作品

優秀作品

「変化とは何か」 下田尾 佐保 氏(24歳)

 今が2023年だということに新鮮味を感じなくなったのはいつからだろう。〝2022〟という数字の並びを見て、色あせた懐かしさを覚えるようになったのはいつからだろう。〝未来〟はいつの間にか目の前にあって、〝今〟は気づいたら過去へと遠のいていく。
 私は〝時間〟をこの目で見たことがない。だけど時間は流れているのだと感じている。そう感じているのに、時間のただなかにいる限り、その流れの全体像を捉えることはできない。なぜなら通り過ぎてしまった過去は不確かで、未来は今まだ存在せず、今は今と思った瞬間にもう今ではなくなってしまうからだ。「いまここ」だけが確かに存在するのに、「いまここ」にはわたししかいないうえに、わたしですらも「いまここ」を取りこぼしつづけながら生きている。
 時間の流れはわたしを変化させる(いや、もしかしたら逆かもしれない。変化しているという事実が、時間が流れていることを実感させるのか)。時間は過ぎていくから、物ごとは動いているから、わたしも、あなたも、世界も、何もかもが変わりつづけている。〝世界〟をわたし以外のあなたの総称だとする。〝あなた〟をわたし以外のすべての存在だと定義する。〝わたし〟とは今考え、感じ、この人生を生きてきたと自覚しているこのわたしのことだ。生きていく限り、わたしは時間に流され、世界に触れ、あなたと関わり、変化していく。わたしの変化が世界やあなたの変化に影響を及ぼし、世界やあなたの変化がわたしを変化させる。

 すべての物ごとが自分の意図とは関係なく変化していることを知りながら、私たちは変化に対しての欲求を抱くことがある。人はよく「変わりたい」という。「成長したね」は誉め言葉だ。肯定的な変化を望むとき、人はその人がその人でなくなっていくことを求め、喜ぶ。そんなにも簡単に過去の自分を失ってよいのか。変わりつづけたら、過去の自分は他人になってしまうのか。「いまここ」にいる私は未来には存在しなくなってしまうのだろうか。
 変わりつづけたら、過去の自分は他人になってしまうのか。不動であることが不変であるならば、変わらない部分などないはずだ。それなのに私はどうしても、過去の自分が「いまここ」の自分と全くの別人だとは思えない。久しぶりに再会した友人のことも、その人がその人であることを認識できる。わたしはどうしたってわたしであり、あなたはどうしたってあなたである。私たちはなぜ、変わりつづけるのに変わらないのだろう。
 変化とは、例えば機械の部品を交換していくように、それぞれの側面が一新されていくような仕方ではなされていないのかもしれない。そうではなくて、粘土が様々な形に姿を変えることができるように、そのものをそのものたらしめる何かを確立したまま繋がりを持って形を変えていくのだろう。そのものをそのものたらしめる何かは、きっと目には見えない根本にある。私たちは連なる変化に一貫性を探したり、暫定的な人生を総じてみたりする中で目に見えないそのものの本質を捉えようとしているのかもしれない。「面影がある」という言い方をする。記憶が、過去と今を繋いでいるのだろうか。
「変わりたくない」と思うことが多い。変化に後から気がついて、胸が締め付けられるような気持ちになることもある。私はなぜ変化を恐れるのか。それは、変化は私に「いまここ」を手放しなさいと言っている気がするからだ。それは、変化は私が大事に思ったものを次の瞬間には遠くへ投げてしまうように思うからだ。変化のただ中において、人や場所との出会いはすべてが一時的なめぐり合わせによるものである。それぞれが同じ変化をしない限りは永遠にそこに留まることはない。変化するということは、いつか必ず失うということだ。不変のものなどないのだとするならば、何ごとも私の手の内から常にすり抜けていく。「いまここ」にとどまることのないものを、「いまここ」にとどまることのできない私はどのように大事にすればよいのだろう。

「変化」をテーマにしたかったのは、変化によって生まれるどこか切なくて悲しい感情の扱い方が分からなくなってしまった瞬間があったからだ。私たちは「成長」のような肯定的な変化を求める一方で、「衰退」や「忘却」などの変化を拒む。この相矛盾した欲求を同時に成立させてしまう人間の欲深さが不思議だ。恐らく年齢のせいで、私は肯定的な変化をよく期待される。だけど実際は、変化による悲しみを想像してしまうことの方が多い。本当は年齢など関係なく、誰もが得ては失い、成長しては衰退し、知っては忘れてゆく。結局のところ、時間を止めてしまわない限りは、変化によって生まれるこのどうにもならない感情から完全に逃げ切ることはできない。ただ変化を手放しで受け入れる以外に、今の私ができるのは「変化」の正体について考えることだけ。ここまでなのだ。
(しもたお・さほ)

選評 ▼

◆ 哲学エッセイ度が増して、⽂章がこなれてきた。
◆ ⾃分の捉えた「感じ」を、安易に結論を出さず、じっと⼿の中で丁寧に⾒つめ続ける姿勢がよいと思います。 考える「私」を⼀歩引いて⾒つめるメタ「私」がいて、それが考えを深めてはいる⼀⽅で、やや着地を急ぐ感もするのが惜しいところです。