第2回 哲学甲子園 受賞作品

優秀作品

「『自分らしい』とはどういうことか」 大森 美徳 氏(24歳)

 しばしば⽿にする「⾃分らしい」という⾔葉は、⼀般的に善いこととされる。
 ある本には、「後悔のない⼈⽣を送るために最も⼤切なのは⾃分らしくあること」と書いてあった。ある政治家のポスターには、「誰もが⾃分らしく暮らせる街を実現します」と書いてあった。⾃分らしさなど重要ではないという意⾒も時折あるが、それが逆説として成⽴するのも、重要だという通説が前提としてあるからだ。
 だが、そもそも「⾃分らしい」とはどんな状態を指すのだろう。そこを知らなければ、それが善いものかどうかを考えられるはずもない。

 まず「◯◯らしい」という⾔葉だが、これは基準となる「◯◯」が先⾏的に存在し、その基準に近似しているさまを表すようである。
 例えば「⼦供らしい」という⾔葉は、まず⼦供とはこういうものであるという基準が先⾏的に存在していて、その基準に近似しているさまを意味する。僕の場合だと、負けず嫌いを我慢出来なかったり、ささいな怪我を痛がったりした時などに「⼦供らしい」と⾔われた。
 ⼦供とはこういうものであるという基準は、様々な要素が絡み合って形成されるのだろう。⼦供が概ね共通して持っている特徴、メディアや他⼈などの他者から受ける影響、個別の主観など。
 これと同様に考えるなら、「⾃分らしい」という表現が成⽴するためには、まず⾃分とはこういうものであるという基準が先⾏的に存在しておく必要がある。その基準である「⾃分」に近似した⾔動や態度をとるときに「⾃分らしい」が成⽴する。逆に「⾃分」から逸脱するときには「⾃分らしくない」となる。
 では、その基準である「⾃分」とは何だろうか。それはどのようにして形成されるのだろう。⾃分とはこういうものである、という先⾏的な基準は誰が決めるのだろう。
 他⼈などの他者だろうか。
 そうではない、というのが我々の実感に近いのではないか。⾃分がどういう⼈間であるかを外的な他者に決めつけられても納得いかないことのほうが多いからだ。
 では何によって決められるのかと考えたときに、ふと浮かぶのが、⾃分⾃⾝という回答である。⾃分がどういう⼈間なのかは⾃分⾃⾝で決めるのだと。
 しかし、これは本当だろうか。もし⾃分がどういう⼈間なのかを⾃分⾃⾝で決められるなら、たとえば「絵を描くのが好きな⼈間になろう」と決⼼した⼈は必ずや絵を描くのが好きになるのだろうか。
 そう決⼼してもそうはなれない、というのが実情ではないだろうか。⼀時的には描けたとしても、⼼底から好きにはなれず⻑続きしない。逆に、ほんとうに好きで絵を描き続けている⼈は「絵を描くのが好きな⼈間になろう」と決⼼するまでもなく描き始める。
 他にも、あくまで⼀例だが、僕は読書が好きで、異性愛者で、ひとつのことに集中して取り組むのを好む。だがどれも、そうなろうと意志してそうなったのではない。なぜか、そういう「⾃分」に⽣まれついたというに過ぎない。
 つまり、⾃分らしさにおける「⾃分」という基準は、⾃分⾃⾝ですら決められないものなのではないか。誰しも、どこの家庭に⽣まれるかは選べない。国や時代も選べない。しかしそれよりもっと以前に、他ならぬ「⾃分」に⽣まれつくことを⾃分⾃⾝では選べないということだ。これほど不思議なことがあるだろうか。
 だとすると「⾃分らしくあること」は、我々の想像を遥かに超えて容易ならざることなのかも知れない。なぜなら、それは⾃分で選んだのではない、何が正解かも不明な、未知なるものに近づこうとする試みに他ならないからだ。
「⾃分」が未知なるものであるために、あらゆる可能性に挑戦し得るという意味で⼈は無限的だと⾔える。だが最終的には、あらゆる可能性のうち「⾃分」に適合する道しか選びようがないという意味で⼈は有限的でもある。
 その無限性と有限性のあわいに存在するたしかな「⾃分」に出会うことを「⾃分らしくあること」と呼ぶのだとすれば、それはやはり困難なことに思えてならない。
 では、その困難な試みが善いこととされるのはなぜか。
 まさに、それが幸福という感情に強く結びつくからなのだろう。絵を描くのが好きな「⾃分」に⽣まれついた⼈は絵を描けることに、同性愛者である「⾃分」に⽣まれついた⼈は同性を愛せることに幸福を覚える。このように「⾃分」に忠実でいられること、つまり⾃分らしくいられることは、幸福に資するがゆえに善いこととなる。
 だが、これもまた不思議である。
 ⾃分らしさにおける「⾃分」は⾃分の意志では決められないのではないかと先述した。
 だとすると⾃分らしくあることは、⾃分の意志を超えたところの、⾃然の摂理に与えられた「⾃分」を⽣きることなのだと⾔えそうなのだが、それはもはや、⾃分の意志で⽣きていることになるのだろうか。果たして「誰の」意志で⽣きていることになるのだろうか。
(おおもり・みのる)

選評 ▼

◆ 一個ずつ積み上げていくが、結論は出ず、ますます深みにはまるばかり。 それでもまた積み上げていく姿勢を買いたい。
◆ つい考えてしまう癖というものがあり、考えた先でどんな不都合なことに出会っても楽しいと感じてしまう性質なのでしょう。 時に表⾯的な⾔葉の定義に頼りがちなところはありますが、楽しんで考えているのがじつによく伝わる⼀篇です。