第2回 哲学甲子園 受賞作品

優秀作品

「夕方の化学室、そして今ここにいることの意味について」
岩間 絢子 氏(16歳)

 その問いに出会ったのは、去年の初冬のある日、学校から帰る途中だった。そのころ私は、所属する生物系のプロジェクト(私の通う学校では、希望する生徒が興味のある科学の分野ごとのプロジェクトに入り、研究を行うという取り組みをしている)での発表会のために、放課後によく、実験をしていた。長い間幽霊部員だった私には慣れないことばかりで、とにかく、疲れていた。
 夕日で照らされた道を歩きながら、次のやることは何だろう、いつしよう──と考えていて、ふと私は目の前のある問いに気づいた。
 なんでこんなことしているんだろう。
 そもそも、なんで生まれてきたんでしたっけ。
 そのとたん、もう何もかも虚しくなって、どうでも良くなった。もしも今、私の身に何かあっても、何事もなく歩いていても、どちらも「大したことない」ことだと感じた。あまりにもちっぽけな私は、研究はおろか存在さえ、人類の歴史には少しも残らない。もっと言えば、現在人々が記憶している人々だって、人類が滅んで文明のかけらさえ無くなれば、どんな成果も行いも無いに等しい。それなのになぜ私は、いつか消える存在でありながら、生き物の命を奪って命を繋ぎ、学び、動き、そしてここにいるのだろう。私がこの世に存在し続けることに、一体何の意味があるというのだろうか?
 すっかり面食らって空っぽになった私は、とりあえず家に帰った。そして、ふらふらした気分で、まずは母に一切を話してみた。母はいつもと変わらず言った。
「そうだよ、意味なんてないんだよ」
 それは、あまりにも正しくて、まっすぐで、少しつらかった。自分が「生きていることは素晴らしい」などと、陳腐な回答を求めていたのだと気づいて、余計落ち込んだ。
 とはいえ母は一緒に、大真面目に考えてくれた。それ自体とても嬉しかったし、人に相談すると心は楽になるもので、私はいくらか正気を取り戻した。でも、心の中にはまだ、あの問いが座り込んでいた。
 数日後、私はまた実験をしていた。生徒の実験は大人が監督する決まりなので、その日はプロジェクトの顧問である生物の先生に監督をお願いした。
 作業をしながらふと、長い間生命に関わってきた先生なら、あの問いに何と答えるのだろう、と思った。変に思われるかもしれない、と少しためらいながら、私は先生に、数日前のことを話した。
 私が話す間、先生は本当に静かだった。話し終わると、彼女は口を開いた。
「生きていることに意味を見つけようとすると、つらくなってしまうかもしれないね」
 意味がある、無いのどちらかだと思っていた私には、予想外の回答だった。もちろん、それが遠回しに、「無い」ということを意味していても。
 やっぱり無いのかな、と思いつつまだ腑に落ちていなかったが、2人の大人に聞いてそう言うのだからそうなのかもしれない、とぐるぐる考えていた私に、先生は言った。
「でもそれなら、生きたいように生きればいいんじゃない、とも思うよ」
 それから半年間、私は様々なことを学んだ。細胞の膜は、リン脂質でできている。DNAのヌクレオチドの相補的な結合は、生体の中でなくても起こる。人類は、人工的なゲノムを持つ、増殖可能な人工生物を作り出した──
 先生は事あるごとに、「生物なんて所詮化学物質の塊だから」と言っていた。その度に「そうはいっても」と思っていたが、学べば学ぶほど、本当にその通りであることを思い知らされた。
 今、私の中での最善の答えとなっているのは、「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ」(V・E・フランクル『夜と霧』)という言葉だ。今自分がいるのは、全くの偶然でしかない。それを「奇跡」と呼ぶ人もいるが、何か重要な意味を持っているわけでもなければ、何か特別な存在であるわけでもない。潔いまでに、ただここにいる、それだけのことだ。でも今はそれが何だか、少し嬉しい。大体、目的をもって生まれてきていたら、まるで工場の製品のようではないか。生きること、それ自体が答えであるというのは、絶望であり、同時に希望でもある。
 今でもあの問いは、いつも私の中にいる。それが少し辛い、と思うこともある。それでも、私はその問いの存在が、尊いものだということを知っている。
 そして、ちっぽけな化学物質の塊は、今日もここで、生きている。
(いわま・あやこ)

選評 ▼

◆ ⼤命題に挑み、答えはもちろん出ないが、⾃分の⾔葉で⼀歩だけ先に進むことができた。 いつか、答えを⾒つけるだろう。
◆ 絶望と希望のあいだを揺れながら、⼀⽅的な決めつけで済ますことなく、わからなさをゆるく抱えて先に進もうとする姿勢を好ましく思いました。