第1回 哲学甲子園 受賞作品

優秀作品

「生きがいについて考えていること」 下田尾 佐保 氏(23歳)

 私が自分の"生きがい"の無さを自覚し、そのことが悩みへと昇格した原因の一つは星野道夫だ。東京の喫茶店で開かれていた哲学カフェに参加した際、生きがいについての問いと共に星野道夫の名前を出すと、そこにいた何人かの男女が「私も星野道夫が大好きです。」と一斉に目を輝かせた。そのくらいに星野道夫は多くの人を魅了する力を持っている。私も星野道夫の写真、生き方、言葉がとても好きだ。
 星野道夫と出会うまでの私は、意味があることよりも意味が無くても価値があるのだと思えることの方が本質的で大事なのだと信じ、ただ存在することを一番大切にしようと生きていた。しかし、星野道夫の生き様を知ってからは、一番大切にしていたはずの"ただ存在すること"を超える"生きがい"を持つ彼が羨ましくなった。私が"ただ存在すること"を肯定することで否定をしたかったのは、人生や未来の効率を考え小手先で生み出した意味によって"今"を消費してしまうことであり、星野道夫のように積極的に人生に飛び込むことでむしろ"今"に最大限スポットライトを当てるような生き方は素直に憧れることが出来た。新しい考え方を手に入れた一方で私は、大きな"生きがい"を持っているが故に未来を見る必要がなくごく自然に"今"を生きている彼と、未来への不安から目を逸らすように"今"にしがみつく私との大きな差を感じ落ち込むことになる。
 星野道夫の生き方を知ったことがきっかけで、生きがいについて真剣に考えるようになったわけだが、実際に星野道夫が自身の生きがいについてどう考えていたのか、本当のところ、私は知らない。ただ、彼の存在を知ったことが私の大きな問いが生まれる原点になったので、ここに言及したことを許してほしい。

 "生きがい"とは、例えいつか必ず死んで何もかもが消えてしまうとしても、そのことに虚しさを感じず生と死の選択肢の中から積極的に生を選ぶことが出来る心を後押しするきっかけに値するものだと定義する。その上で、私が生きがいという問いにこだわる理由や、生きがいに求めるものについてここで考えていきたい。
 23歳になった私は、会社に就職し社会の一員としての人生を生きている。属する場所ができ、社会とのつながりを持って生活をする中で、ライフステージ(結婚や出産、仕事での成功、その他の夢についてなど)について話題に挙がることが学生のころと比べ格段に増えた。私も自分のライフステージについて現実的に考えることがある一方で、そういった話題についてどこか本当のことではないように感じ虚無感を抱くこともある。
 私たちは“生きる”のただなかにいるが故に、“生きる”を前提としたその上の出来事を最も重要なこととして考えてしまうことが多い。人生について想像するとき、私は一直線をイメージし、左端を人生の始まりすなわち“生まれる”、右端を人生の終わりすなわち“死ぬ”と設定し、どこか一点を“今”と定め、そこから左側を“過去”、右側を“未来”と認識する。そうして紙の上のもしくは頭の中に思い浮かべた数直線のようなものをもとに、自分の人生を客観的に捉えることで、未来がより輝くように今出来ることを考える。しかし、時に一直線上の終わりにある“死ぬ”の存在がやたらと大きく見えるときがあって、そういうときは、それ以外のいわゆるライフステージのところの現実味が一気に無くなってしまう。私はそもそも、“生きる”を選択している事実に対する自信を持っていないのだ。

 “生きがい”とは別に、“生きる意味”と“生きる理由”について考えたことがある。生きる意味”について考え始めたのはもうずっと前で、きっかけは、ふとした瞬間に湧き上がる、生きていることに対する虚無感だった。経験したことがないので分からないことだが、私は、死んだら私の気持ちも思考も形も何もかもなくなってしまうのではないかと死後の世界を想像している。何もなくなってしまうことが怖くなることもある。「死んだら何もかもなくなってしまう。どうせ全部おわるのにどうして生きているのだろう」そう思う瞬間に虚無感を覚え、生きる意味について考える。考えるのだが、考えているうちに”意味“が何を示しているのかが分からなくなり、何を知りたくて考えているのかも分からなくなり、考えることを放棄してしまう問いの一つであった。
 “生きる意味”は独自の答えを持っている人がいたり、私と同じように探している人がいたり、そもそも考えたことがない人もいると思うが、”今生きる理由”であれば、誰もがいま生きている限りそれぞれの答えを持っているのではないだろうか。私が今生きている理由の一つは死ねないからだ。生きがいがないので積極的に生に留まる理由はないけれど、死ぬのはこわいし、予定や約束がいくつかあるので今は死ねない。だから生きている。
 意味は客観的評価で未来へ向かうもの、理由は個人的なもので今あるものだとなんとなくのイメージで持っている。生きる意味はあまりにも難しく、見つからなくて、考えるたびにどうして私が生きているのか分からなくなり虚無感が増したが、生きている理由について考えたときには自分の答えを見つけて心の中で納得出来た気がした。

 今“生きている理由”についてひとまずの答えを持つことが出来ても、なお、“生きがい”を別に必要と感じる理由の一つは、この先の人生で起こるであろう“絶望”や“悲しみ”を恐れているからだ。それは、生と死の中から積極的に死を選び得る唯一のきっかけになってしまうと考える。生きていく中で何か絶望的な出来事や深い悲しみに襲われたとき、きっとその人の時間は止まってしまったように感じるだろう。大きな絶望や悲しみを抱えたまま生きるよりも人生を終わらせてしまった方が楽なのではないかと思ったことのある人もいるのではないだろうか。未来が、今まだ想像の中でしか存在していないことを分かっていながらもこの先の“絶望”や“悲しみ”を想像してしまうのと同じように、“絶望”や“悲しみ”の先に“希望”が待っている可能性もあることをきっと多くの人が自身や他人の経験をもとに知っている。それでも、止まってしまった時間の中で目の前のことにただ溺れてしまうことしかできなくなってしまうくらいに、“絶望”や“悲しみ”の力は大きいものだと思う。死を選ぼうとしている時にそっち側に落っこちてしまわないように引き留めてくれる存在に、“生きがい”はなってくれるのではないかと期待しているのだ。
 また、そういった生と死の狭間にいる状況ではないときにも、“生きがい”は積極的に“生”の方へと引っ張ってくれる力を持っていると思う。生きがいの無い私は、“死”を筆頭としたさまざまな困難を恐れるあまりに安全な生き方を心がけている。それ故にただ生をこなすことが目的となってしまい、生きること自体に虚しさを感じることもある。“生”へと引っ張ってくれるような生きがいは死すら恐れない。先に“生”を支えてくれる生きがいと述べたので、矛盾した書き方しまうが、死の恐怖を超えるほどの生きがいは“生”を輝かせてくれる。星野道夫の生き様を知ったとき、彼はこのような生きがいを持っていたのではないかと勝手に感じ、とても羨ましくなった。
 “生”へと引き留めてくれるような生きがいと“生”へと引っ張ってくれるような生きがい。私はこの二つともにまだ出会っていないので、これらが同一のものなのか別のものなのかは分からないが、ここに述べたイメージが、私が求めている“生きがい”なのではないかと感じている。

 私は生きがいを持っていない。そのことをある友人に話すと、「本当に?」と選択肢を提示しながら一緒に考えてくれた。今手にしているものに意味を与えることで無理やり"生きがい"を作り上げることも出来るが、それらはどんな時でも私を"生"の方へと後押ししてくれる力を持っている訳ではない。"生きがい"が無くとも、"生きていて良かった"と思える瞬間はある。ただ、それらは経験をした後に湧き出る感情であるため、"生きがい"とは別ものだ。これまで"生きていて良かった"瞬間がいくつもあったからといって、今後もそのような瞬間があるとは確信が持てないので"生"を選ぶきっかけにはならない。
 生きがいは無くても生きていけると思う。生きがいがない人は私の周りにもたくさんいる。生きがいは考えて作るものでも、見つけるものでも無く、出会うものなのではないのかと何となく想像している。ただ、生きがいに出会えた人は幸せだと思う。
 私は生きがいがないと感覚的に確信しているけど、これらが無くなったら死んでしまおうと思えるほどに今ここに生きていることを支えてくれることがらはいくつか持っている。それらがどうして生きがいとは言えないのかも、まだうまく説明しきれない。失って生きる気力を無くすくらいに絶望をして、それからはじめてそれが生きがいであったと言えることもあるのだろうか。
 大きな力を持っている生きがいに対して期待をしながらも、生きがいを失う可能性も十分にあること、そして、生きがいを失うということが何よりも耐え難いほどの大きな絶望を生んでしまうということももちろん想像している。生きがいを失ったときに、支えてくれるものもまた、別の生きがいであるのかもしれない。生きがいは出会うものであると同時に、失い得るもの。特に、自分以外の命を生きがいにした場合はそうなのかもしれない。

 思考の途中段階であるため、この問いに対する結論は出ないが、最後に一つ述べておきたいことがある。それは生きがいについて考える上で、生きていることが正義だという前提も強く持ちすぎないように気をつけたいということだ。
 私は生きがいを持っていないが、幸いにも、たくさんの人に守られ安全に穏やかに暮らすことが出来ている。心の違和感に耳を澄ませ、そこから生まれた問いに対して十分に向き合おうとする余裕もある。しかし、世界には私の経験したことのないいろんな人生の中で、未来すら想像できず不安定な中に過ごす人々、気持ちの問題だけでなく死を選ばざるを得ない人はきっとたくさんいる。生きることすらままならない人達にとって、生きることのプラスアルファとしても捉えられる“生きがい”という概念を知ることは、それこそ絶望を与えてしまうかもしれない。生きがいは生きていく上での心を支えるものにはなるが、命は心だけではないので例えば回復する見込みのない肉体的な苦痛を抱えているときには生きがいという言葉は全く意味を持たなくなってしまうかもしれない。
 いつからか広い世界知ることをこわく感じるようになった。世界には数字でまとめられてしまうくらいに大勢の人が亡くなってしまうような事故や事件が起きることがある。でも、そんなとき私は世界で起こる大きな悲しみに打ちひしがれながらも私の小さな人生で降りかかる個人的な悲しみにもちゃんと溺れていて、世界がいくつもあるようでいつも混乱してしまう。他にも、いま私が属する組織(会社や日本や…)の将来について知らないといけない場面になると、いつも同時に私個人の想像し得ない未来について考え不安になる。私が経験していない場所やコントロールしていない部分の大きな世界と、私の感情が直接触れる範囲の小さな世界とがどちらもあって、私の心と頭の中で世界が大きくなったり小さくなったりする。感覚的な説明になってしまうが、世界は一つでは無くて、一つではないけど全部繋がっているのだと思う。だから、知らない世界がたくさんあって、繋がっているのにいつも私は自分の世界が中心にあって何も出来ないことに気付くのがこわいのだ。
 私は私以外の世界のことは知ることしか出来ない。ただ、私の世界しか経験していない状態で、これからも私の世界を生き続けるために、生きがいとの出会いを期待して生きてみようと思う。

選評 ▼

◆生きがいとは、おそらく哲学的命題ではないので、どんなに考えてもふわふわしたものにしかならないと思うが、それでもそこへ果敢に突き進んでいるのがよい。
◆やむにやまれず考えてしまう、その切実感をもっとも感じた作品。考えが尽きないことに不安を覚えながら、絶望も逃避もしないところを評価したい。考えつづける自分に自信と期待を持ってほしい。
◆作品のなかで「生きがい」と対比されている「生きる意味」や「生きる理由」のほうが哲学のテーマなのだった。作者はそれを承知しているからこそ「私は生きがいを持っていない」と言うのだろうか。生きがいと、生きている理由との合致が見つかるまで、考える旅が終わることはないと自覚している作者のあり方を、高く評価します。