第1回 哲学甲子園 受賞作品

優秀作品

「月は輝き、輝かせ、そして残酷だ」 大場 美穂 氏(14歳)

 人は何故死ぬのだろうか。いや、死ななければいけないと書いた方がいいかもしれない。ともかく、そんなことをふと考える時がある。その疑問を初めてもったのが三歳頃だったと思う。曾祖母の葬式に参列した時に初めて、「死」を知り、とても恐れた。その後、母に自分はいつ死ぬのか…とずっと問いつづけた記憶がある。
 以前、「かぐや姫の物語」という映画を見た。かぐや姫は月で罪を犯し罰として地球に来る。かぐや姫の住んでいた月は全てが美しく、完璧である世界だった。そんな世界から、かぐや姫は地球に来て、月とは違う不完全な美しさを知る。どれだけ深いのかも測り知れない親の愛情、いつかは終わりのある友情や恋、人間の裏側の感情の嫉妬や不安、恐れ、過去を羨む懐かしさや寂しさ…など様々な感情や、自然の美しさ、そしてかけがえのない思い出などを。その全てがかぐや姫の一部となった時に月から迎えが来る。そして、かぐや姫は天の羽衣を被らなくてはいけない。天の羽衣を被ると地球での全ての記憶が奪われてしまう。これが、かぐや姫に課せられる罰ではないか。それと同時に、これは人間における死も表しているだろう。なぜなら、天の羽衣をかぐや姫が被り地球での記憶を忘れることは、地球でのかぐや姫は死んだことになるのだから。ということは、かぐや姫の帰る月はあの世を指すのだろうか。話は戻るが、天の羽衣を着て、地球での記憶をなくすことは、何故かぐや姫にとって罰なのだろう。二度と戻ることのできない地球の記憶をなくすことで、かえって月に戻った時に永遠と苦しまなくてすむのではないか、と思ってしまう。この疑問を解いてくれるシーンが、あった。それは、かぐや姫が地球に来る前、まだ月にいた頃、かぐや姫より先に地球に行って帰ってきた月の人が、地球を眺めながら物悲しそうに地球の唄を口ずさんでいた。その月の人は、天の羽衣を被せられ、地球での記憶を奪われ地球のことは忘れているのに何故か苦しみ続けていた。私は、こう考えてみる。その月の人や、かぐや姫は、記憶の「記」の字のとおり、頭に記憶を記していた。一方で、地球にいた時の心は自然と魂に刻まれていた。記したものは消せても刻まれたものは、簡単には消えない。その月の人は魂の悲鳴や悲しみ、苦しみを感じていたのだと。かぐや姫も月に帰った後このような罰が待っているのだろうか。それと同時にこれが人間の生まれてきた意味なのだろうか、と考えてしまう。私達は何かの罪として地球に生まれ、最後に罰として死んで頭の記憶を失い魂の悲鳴に苦しみ、悲しみを味わい続ける…。それが生れて死んでゆく意味なら残酷で、辛いし、悲しい。しかし、この物語にはもう一つ捉え方があると思う。一回、一つ目の捉え方を忘れたうえで読んでほしい。「かぐや姫」では、月は人の理想とする完璧な世界を表している。しかし、その物語を観た後、その月に行ってみたいと思うだろうか。むしろ、地球で生きてゆける喜びや幸せを感じるのではないだろうか。月が死を象徴し、地球が生を象徴しているからだろうか。この物語を観る前までは完璧な世界を羨み、今いる自分の世界を哀れんだが、完璧な世界が死を表し、逆に今いる自分の世界は生を表すと知ると、今いる自分の世界が完璧な世界より輝かしく思える。夜空に輝く月でも、この物語では輝けなかったのか、それとも地球の輝きに勝てなかったのか。あるドラマの言葉を引用する。「死があるから、生が輝く」(トッケビより)逆にいうと、私達は死というものがなかったら生きてゆける幸せ、喜びを感じないのかもしれない。死はそれを感じさせるためにあるのだろうか。
 何故死ぬのか、理由なんてきっと永遠に分からないかもしれない。二つの考え方のうち、どちらが正解で不正解か誰にも分からない。でも、私は二つ目の捉え方を自分の中の正解として生きてゆこうと思う。そっちの方が生きてゆける全てのことが輝いて見えるような気がする。

―最後に―
 二つ目の捉え方は、一つ目の捉え方があることでより輝いて見えたのではないか。最終的に「死ぬ」という事に変わりはないのに。

選評 ▼

◆哲学、散文、どちらの素養もある人だと思う。ここは恐れずに、もっと哲学的思考へ挑んでほしい。
◆答えのない問いに向かって、何度も疑問を投げかけ続ける姿勢がよい。答えが常に更新されることを恐れず今後も考え続けることに期待します。
◆文章がとても得意な人だと思う。考えることが好きで、書くことも大好き。この調子でどんどん書いてゆけば、さらに上手に表現できることでしょう。池田晶子が12歳のときに書いた物語「空を飛べたら」(『私とは何か さて死んだのは誰なのか』に所収)を、ぜひ読んでみてください。