第1回 哲学甲子園 受賞作品

最優秀作品

「価値観への接し方」 大日向 花梨 氏(18歳)

 今、様々なところで「価値観」という言葉を頻繁に聞く。価値観の問題、価値観の違い、価値観のすれ違い、など価値観は論点のテーマとなることもある。そんな中で、私たちはよく「色んな他者の価値観を認めよう」「自分とは違う他者の価値観を受け入れよう」ということを言われる。しかし、価値観を認めたり、受け入れたりしたその先に何があるのか、またその行為自体どういうものか、さらにはそもそも他者とは、価値観とは、を私たちは明確に知らないのではないか。そこで改めて「他者」、「価値観」、「認める」、「受け入れる」ということを考え直してみよう。

 まずは、「他者」だ。私たちは人間である限り、他者と共に生きていて、他者を助けたり、逆に助けられたり、傷つけたり傷つけられたりしている。そんな他者はみんな自分とは異なる異質性を持っているだろう。それは顔や髪の色といった外面的なものだけじゃなくて、内面的なものもそうだ。何を考えるにも、何を感じるにも、すべてが同じな他者はいない。同じ経験をしていても、例えば同じ映画を見ても、違う感情を抱いたりするのが他者だ。そんな他者が、異なる価値観を持つことは疑う余地がない。

 では、そもそも価値観とはなんだろうか。例えば、好きな作家、好きな食べ物、日頃の生活で何を大事にするか、何にお金を使うかなどが自分と合う人のことを、価値観が合う人と呼ぶ。つまり私たちは価値観というものを、身の回りにあるものの中に価値を見出す際の一種の判断材料のようなものとして使っている。では、なぜ価値観の違いが問題視されるのか。好きな食べ物や好きな本などの価値観のズレは他者の存在がある限り当たり前のようにある。しかし、しばしその異なる価値観同士が衝突してしまうことがある、これが問題なのだ。そこで、私たちは価値観を「認める」「受け入れる」ということが必要だといわれる。

 異なる価値観を前にした時どうするか、と聞かれた時、自分は拒否したり否定することなく、認める・受け入れることができると多くの人が思っているだろう。ではその多くの人が自分はできる、やっていると思っている、認める・受け入れるという行為はいったいどんなことなのだろう。受け入れる、と認めるは価値観という主語を前に、みんな同じような言葉として使っているけれど、二つは似ているようで全然違う行為ではないか。間違いを認めるとは言うけど、間違いを受け入れるではなんとなく違和感がある。私はあなたを受け入れるよ、と家族や友達に言われれば安心したり、嬉しい気持ちになるだろう。でも、私はあなた認めるよと言われたら何だか上から目線な気がしてしまわないか。このことからわかるように、「認める」と「受け入れる」は何かしらの違いがある。じゃあ、何の違いがあるのだろう。

 まず、認めるという言葉の分析からだ。認めるという言葉を使う時は、例えば、「彼意見は正しいと認める」、あるいは「彼の意見は間違っていると認める」という使い方をする。また、「才能があるとみんなに認められる」や、「みんなに認められるように頑張る」という受動態でも使うだろう。ここから、認めるという言葉は、正しい・間違っている、とか、才能がある・ない、だとかいうことについて使われるように感じる。これより、「認める」という行為は何か一つの概念に規定してしまう性格を持ち合わせていないか。それゆえ、価値観を認めるという言葉には、価値観が自分に合っていると認めるとかその価値観は正しいと認めるという意味が内在しているように思える。そのように仮定すると、価値観は認められるものなのだろうかという疑問さえ沸いてくる。

 そこで今度は「受け入れる」という言葉の分析をしよう。受け入れるという言葉は、受け取って、自分の中に入れるという意味に解釈できよう。まず、受け取るためには自分とは異なる価値観を知ること、他人の意見に耳を傾けることが必要だ。そのうえで自分の中にその価値観を入れるのだ。しかし、その自分の中に価値観をどう入れるかという際の判断基準となるものは何だろうか。他者の価値観に価値があると判断するのは、そう、価値観なのだ。価値観で価値観を受け入れる。ここでちょっと待てよ、と思う人もいるだろう。結局、ある人の価値観を認めたり受け入れたりするのはそれもまた価値観の問題で、認めたり受け入れられないとしてもそれは価値観が違うのだからしょうがないということに帰結してしまわないかと思うだろう。そのように仮定すると、また、価値観は受け入れられるものなのだろうかという疑問が沸いてきてしまう。

 みんなが価値観に対して当たり前のようにされるべきと思っている「認める」「受け入れる」ことの差を考えて、どっちがより価値観に対しての正しい態度なのかを考えてきたけれど、こうして分析してみるとどっちもふさわしくないのではないかと感じてきた。両者は異なる点もあるけれど、価値観に対しての態度の結果に着目している点で共通していることが分かった。他人の価値観に対して、結果を求めるべきなのだろうか。衝突の生まれる原因はそのような結果を急ぐことからではないか。価値観への態度はもっと温かみを持ったものであるべき気がしてきた。

 今までは、価値観同士の衝突を避けるために、「他者の価値観を認めよう」といわれてきたのだったね。しかし、そういわれることは「認める」ことが正義で、他者の価値観を認められない人は冷たくて自己中心的だと非難の対象になるように聞こえる。しかし、ある価値観を正しいと認めることができない人を非難する風潮は、その価値観を正しいと認められないという価値観を認めていないという矛盾に至らないだろうか。

 では、衝突もなく、受け入れたり認めたりすることを強制しないような価値観への態度はいったいどのような態度だろう。そんなものないのだろうか。ここまで考えてきて、このように感じただろう。そう、まさにその姿勢だ。価値観に対しての適切な態度はまさにこの態度ではないか。つまり、悩む、考えるということだ。時間をかけて自分とは異なる他者の価値観について、何が自分とは異なるのか、どうして認めることができないのか、どのようにしたら受け入れられるのか、悩み考える。それはすぐに答えが出ないし、とても長い時間を要するかもしれない。しかし一歩一歩自分とは異なる価値観に近づこうとすることこそが価値観に対する最も寛容な接し方ではないか。

 私たちは子供のころに比べて明らかに色んなことを経験して、知って、それゆえ価値観を認める際も、あらゆることを知りすぎて簡単には答えを出せなくなっている。子供のころならすぐ「いいね」と言えたことも、言えなくなってきている。でも、相手の価値観が認められない時、いきなり相手を責めたり、悪口・陰口を言ってはいけない。そもそも価値観というものが認められるものなのかどうかも私たちはわからないのだから。それに、その人にもその価値観を持った理由や背景があるはずだもの。それを知らずに相手を責めることができてしまうのが人間の怖いところだ。

 その「いいね」と言えないところには何が潜んでいるのか、考えるのだ。それは自分自身の感情や気分によってではない。今の社会、その中で生きる人々、自分、大切な人にとって、その価値観の何が弊害となっているのか、自問自答し、悩み、考え続けるのだ。しかし、今の社会では必要以上に答えを迫られる。わからなくて悩むということに負の印象を抱く。そこで私たちはまず、悩んでいる自分に、また考えている他者に寛容になるところから出発しなければいけない。認める、受け入れるといった結果に至るまでの過程に大事なものは眠っているのだ。人間は悩んだり考えたりするという一種の弱さでもあると同時に最強の武器ともなり得るものを持っている。そんな弱さに寛容になり、自分が持っている武器を誇る。そんな態度こそが様々な価値観を持った、同じ人間である他者への接し方ではないか。

選評 ▼

◆考えているうちに、どんどん考えが変わっていくのがよい。最後はわからなくなっているようだが、考えるというのはそういうことだから、今はそれでよい。きれいにまとめる必要はまだなく、ひたすら考えてほしい。
◆積み上げた考えをまとめきれたとは言えませんが、楽しんで考えていることがとてもよく伝わります。考える型ができあがっている感もありますが、形式にとらわれず楽しんでください。
◆価値観、ではなく価値観への「接し方」としたところが、この作者の魅力です。そのうえで、玉ねぎの皮をめくってゆくように、自分の言葉で考えた「考え」が、次々と進むたびにわからなくなってゆく。ついには論理が破綻して、考えるしかない、「考えるのだ」と、さいごは自分を鼓舞している。「考える」とはこのような営みだったと、あらためて実感させられた作品です。