2025年3月27日
第18回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞 受賞記念講演
奈倉 有里
あるいは、現代に直接関係するものとしては、オリガ・グレベンニクというウクライナの絵本作家の描いた、『戦争日記』という本があります。これは、ウクライナの絵本作家が戦争から逃げた数日間に彼女が描いていた絵日記です。
皆様もご存知のように、ウクライナ国内では開戦直後から、多くの人々が家や、家族や、街を失い、難民となりました。逃げられた人は国外で新しい生活をはじめていますが、ここで重要なのは、ウクライナでは、開戦直後からの厳戒令により、成人男子は国外に逃れられないため、女性は夫を戦争のさなかに残したまま、子供とともに逃げなくてはならなかったことです。
ドキュメンタリーやインタビューなどで同じような境遇の人がその悲痛な胸の内を語る様子を見たかたもいると思います。この本の著者であり絵本作家のグレベンニクもそれら幾多の例にたがわず、開戦から九日目に二人の子供を連れてブルガリアに逃れました。
しかし、この本はそういった人々にふりかかった厄災と苦難を克明に描きつつも、いくつかの点でたいへん非凡な選択の結果生まれた、非凡な本でした。
ひとつは、この本がロシア語で書かれているという点です。もともとウクライナ語話者とロシア語話者が共存していたウクライナでは、ソ連時代の初期から幾度かウクライナ語政策とロシア語政策がいれかわり、ソ連崩壊以降はいくつかの段階にわけてウクライナ語化政策が進められてきました。そんななかで作家たちはそれぞれの言語を大切にして創作を続けてきましたが、近年、とりわけ2014年のクリミア併合以降は両言語の作家が執筆言語の違いで対立してしまう悲しい場面を見る機会も増えていました。当の作家自身はただ母語を用いて書いているだけでも、ウクライナ語作家は国家政策に積極的に利用され、ウクライナのロシア語作家は「ウクライナのために」書いていると読みとれる内容をピックアップされてそれが作品の長所のように扱われる状況が続いていました。2022年2月24日以降、その状況はさらに悪化し、ロシア語は敵の言語、スパイの言語として扱われ、アンドレイ・クルコフのようにロシア語が母語の作家でさえ、ロシア語を使うのが恥ずかしいと表明してしまう事態が起こりました。さらに戦場ではロシア語話者にとって発音の難しい単語を言わせて「ロシアのスパイ」を炙り出す行為までなされていました。しかし、いま言ったような背景のなかで言語によって民族や思想の区別をすることは不可能なうえ、さきほどのドイツ語の例からもわかるように、どこのどんな言語の話者にも、あるひとつの言語を母語とすることや、話すこと、それそのものによって生まれる罪はありません。
さて、もうひとつこの本が抜きん出ているのは、突如としてウクライナで爆撃が開始されたその直後から記された「日記」にもかかわらず、温かいまなざしで貫かれ、抑制のきいた文章と絵です。著者はスケッチブックと鉛筆だけを頼りに、子供たちの絵を描くことで心を鎮め、恐怖に打ち克っていきます。食べものが不足し、銀行が閉鎖してお金もおろせず、すぐ近くの建物が攻撃を受けるなかで、子供たちや妊娠している人や高齢者を気遣いながら、彼女の筆はただ静かに目の前のものだけを描き続けることで、本人や周囲の人々を憎しみや恐怖から守り抜こうとしています。
そして最後にもうひとつは、ウクライナ国内に残された著者の夫が、当然のようになした選択です。それは、赤十字でボランティアをしながら救護品を集め、街に残る人々を助けること。国の命令によって、成人男性が戦争のさなかから逃れられないという状況の中であっても、武器を持って戦うのではなく、人の命を救うことだけをするという選択をしたのです。
命が大量に奪われる戦争という異常のなかで、恐怖と憎しみに陥らないという選択、両言語の話者が共存する国で片方が「敵の言語」とされてしまってもその言語で書き続けるという選択、戦争のさなかに残されても人を殺すのではなく命を助けるという選択、この3つの選択は、すべてが極度に困難な状況のなかでなされた、「これ以上の憎しみと破壊に向かわないため」の選択であったのだと思います。
さて、いまみてきたような作家たちがこのような状況のなかでも、憎しみや破壊に向かわないための言葉を紡いでいこうとする姿から、学ぶものは多くあります。
しかし、戦争という巨大な武力を前に、それでもやはり、さきほど言ったように、「呆然としてしまう」「気力を奪われてしまう」というようなときもあると思います。けれども、そんなとき、そういう状態になったということで、自分を責めるべきではありません。
なぜなら、圧倒的な武力の蔓延を前に、呆然とする、落ち込む、あるいは体調を崩す、といった反応自体は、人間としてごく自然で、決して悪いことではないからです。そしてそれも、文学作品を読むことや研究することによって理解できることのひとつです。