2025年3月27日
第18回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞 受賞記念講演
奈倉 有里
このたびはたいへんすばらしい賞をいただき、ありがとうございます。
今日は「文化を抱えて脱走するために」というお話をしたいと思います。脱走、といっても世のなかにはいろいろな種類の脱走がありますが、今日お話ししたいのは、戦争や武力が作りあげる文脈からの「脱走」です。
皆様もご存知のように、2022年から現在までの約3年の期間をみるだけでも、世界の数多くの人々から「平和」を望む声があげられ、そしてそれらが、さまざまな形でかき消されてきました。
ロシアでは2022年2月24日からわずか数週間のあいだに、反戦を取り締まる法令ができ、戦争に反対する声明をだしたウェブページやメッセージが消され、その後も弾圧が続いてきました。また、ロシアとは異なる状況にある世界のほかの場所でも、ここ日本でも、戦争反対の言論は常に政治的な文脈の変化にさらされています。
そうした年月を経て、いま「平和」とか、「戦争をしないこと」を望む言葉を発しようとすると、新たな困難がつきまとうようになっています。これは現代だけではなく戦争が続くときに往々にしてみられる現象ですが、その主な原因は、戦争を推し進める側や、人権を弾圧する側によって発せられる言葉が、言葉の本来の意味を剥奪された状態で、大きくなっていくことです。
具体的にいうなら、それはたとえば、一方で武力の増強を肯定し、兵士たちを戦場に追いやりながら、他方で「恒久平和」を騙る為政者や、そうした権力者の主張を再生産することばかりに始終する政治屋の発する「平和」という言葉です。それらの、あまりにも空洞化した言葉を前にして、私たちはときに呆然とし、気力を奪われてしまいます。
こんなとき、私たちはなにを考え、どんな言葉を用いたらいいのでしょうか。どうしたら、意味を失った言葉を無力に繰り返すことから脱し、武力が作りだす文脈に絡めとられない言葉を探すことができるのでしょうか。文学の言葉は、そのためのヒントの宝庫です。これまで歴史のなかで、戦争に直面した作家や詩人は、さまざまな形で、この問いに向き合ってきました。
たとえば、アレクサンドル・ゲニスという作家がいます。ゲニスは1953年、ソ連のリャザンに生まれ、ラトビアのリガで育ち、1977年以降はアメリカに亡命し、以来半世紀ほどアメリカで執筆を続けてきた、ソ連からの亡命文学者の一人です。
ゲニスは50年ほど前にアメリカに亡命した際、「歴史のなかに現在との共通点を見つけることで、いま自分がどうしたらいいのかがわかるのではないか」と考え、亡命文学者として生きていくためのお手本を探そうとしました。そのときゲニスが見つけたのが、ドイツ文学でした。当時のソ連から逃げてきたロシア人と同じように、かつてファシズムからアメリカに逃げてきたドイツ人は、すべての亡命者の夢である「検閲のない文学」を生み出そうとしていました。なかでも有名なのは、1929年にノーベル文学賞を受賞していたトーマス・マンでした。1938年、「水晶の夜」と呼ばれるユダヤ人迫害が起きた直後、トーマス・マンは、ハンターカレッジのドイツ文学科の教授からの手紙を受け取りました。そこには、いま教え子たちが「こんなに酷いことをする民族の言葉を学ぶ意味があるのか」と不安になっている、と書いてありました。トーマス・マンはその教授に丁寧に返事を書き、ユダヤ人迫害を明白に非難したうえで、これまで文化のためにしてきた貢献は守るべきだと説き、学生たちに対して、「無知蒙昧な指導者たちが現在ドイツ語を貶めようとしているからといって、ドイツ語学習を投げ出してはいけない」と呼びかけました。
ゲニスは続いて、同じように戦争中に言葉を守ろうとした、ロマン・ロランやヘルマン・ヘッセに言及しています。
ゲニスは、いまのようにあまりに絶望的なときは、必ずヘッセの『ガラス玉演戯』を読むといいます。ゲニスはこう語っています──「ヘッセはスイスにいながらドイツに残された平和主義者を助け、難民を助け、死者や迫害された者たちに涙しナチスを批判しましたが、それと同時に作家であり続けることで、文学を戦争から守り抜きました。時事に直結することを書かなければ現実逃避や遠回りをしているという批判のまかり通るような殺伐とした時代にあっても、ヘッセは『戦争』に心を支配されることを頑なに拒んだのです」。
そのようにして、ヘッセはスイスで、トーマス・マンはアメリカで、それぞれにドイツ語をナチズムから守っていました。
そうして第二次世界大戦のあと、焼き尽くされた戦後の貧困のなかで、西欧の人々は皆、ドイツ語を用いていたナチスドイツがどれほど残忍な行為をしたのかをわかっていながらも、ヘッセやマンの本に希望を見出すことで、武力と言語を直結させるという愚行に陥らずに済んだのです。
これが、ゲニスが第二次大戦時のトーマス・マンやヘッセに学んだことでした。