第4回 哲学甲子園 受賞作品

佳作

「動詞として友達を捉えたら、ぼっちの未来は明るくなる」
小山 千紗 氏(16歳)

「友達100人できるかな」

私はこの童謡が苦手だ。友達づくりが得意ではない私にとって、それはわくわくや励ましというより、どこか脅迫めいた響きを持っていた。

でも、ふと考える。

そもそも私がこれまで振り回されてきた「友達」とは何なのだろう。なぜ、数が多いほど望ましいとされているのだろう。

SNSを開けば、フォロワー数の増減に一喜一憂している自分がいる。今の社会では、「友達の数」が可視化され、それが人の価値と結びつけられてしまっている。しかし、数字として増減する一人ひとりの顔も、名前も、何が好きで、何を思って生きてきたのかも、私は知らない。それにもかかわらず、世の中はそれを「友達」と数えてしまっている。

現代社会は、友達を関係性ではなく「存在」として定義しようとする。友達が「できる・できない」、「いる・いない」。このような語彙が示すのは、固定された状態であり、変化のない存在としての友達。でも、私はそこに強い違和感を覚える。友達は本来「関係性」として定義されるべきだと思うからだ。

「関係性」と「存在」の違いはどこにあるのか。「関係性」とは、本質的に流動的なものである。時間とともに変化し、成長したり、離れたりする。一方で、「存在」としての友達は、静的で、名詞的に扱われる。本来、動的であり続けるはずの人との結びつきが、「友達」というラベルによって、まるで物体のように固定されてしまうのだ。

時間の中で、他者と出会い、関係性を構築していく。そんな中で、私たちは、いつ友達と呼べるようになるのか。自信を持ってそう言える関係もあれば、そうとは言い切れないものもある。「友達か?」と問われて、「そうだ」と答えておきながらも「たぶん」という曖昧さを抱えて答えることもある。曖昧な関係に名前を与えられないまま、それでも分類したがる社会が、私たちに「友達」という言葉を安易に選ばせるのではないか。

喧嘩をすればラベルを剥がし、新しく出会った人に貼り直す。そうやって「友達」の数を増減させていく。その繰り返し。だから、数を数えることもできる。しかし、そもそもそんなに「友達か、そうでないか」という区分は重要なのだろうか。「知り合い」と「友達」の間に、本当に何もない空白しか存在しないのだろうか。私はそうは思わない。むしろ、友達未満・知り合い以上の名前のつけられない関係性こそが、最も豊かで、奥深い。そうした曖昧な関係性の中にこそ、時に励まされ、救われ、関係が深まっていく可能性を秘めていると考える。

では、その関係性の中で、「友達」とは何なのか。それは信頼と希望が混ざった言葉である。
「今、たまたま仲が良い」というだけでなく、「これからも一緒にいたい」と思えるかどうか。相手が困ったときには支えて助けたいし、自分が困ったときには助けてもらいたいと自然に思える。その「これからも」という意志と願いがあるかどうか。そう考えたとき、「友達」とは、一時的な共通点や時間の共有ではなく、「時間を超える関係性をこれからも共に築いていきたい」という意志を含んだ表現なのだと思う。

だからこそ、「友達」という言葉は、単なる名詞ではなく、「友達であり続けようとする」行為そのもの、すなわち動詞なのではないか。「友達というラベル」に縛られるのではなく、「友達であろうとする意志」こそが大切なのだと考える。

けれど、そんなふうに考えられるようになった今でも、そしてきっとこれからも、新学年を迎えるたびに、「友達がいないかもしれない」という不安に、私は襲われるのだろう。「胸を張って友達だと言える人」は、片手で数えても余るほどかもしれない。考えれば考えるほど、自分が友達だと思っていても、相手はそう思っていないかもしれないと不安になることもある。また、名前をつけられないと認めてしまっているからこその不安定さも否めない。それでも、相手はそう思っていないかもしれなくとも、私自身が心から「この人は友達だ、友達でいたい」と思える存在がいることは、何よりも尊く、幸せなことだと感じている。

あるとき、こんなデータを目にした。人生でなんらかの接点を持つ人は約30,000人。そのうち、「友達」と呼べるのは30人、親友と呼べるのは3人。つまり、友達と呼べる存在は千人に一人にすぎない。だから、端から友達100人なんて無理な話で、現実的ではないのだ。

人は皆、友達ゼロのいわゆる「ぼっち」という状態でこの世に生まれてくる。だからこそ、出会えたことそのものの奇跡に感謝し、関わってくれる人と真摯に誠実に関係を築いていく。そして、友達を「動詞」として捉えてみる。すると、定まらない関係性のなかにも、不安や孤独と同時に、信頼や希望、そして人と生きることの豊かさが、たしかに息づいているように思えてくる。

名付けられない関係にも目を向けてみると、それだけで、日々の風景は少しだけ違って見えるはずだ。
(こやま・ちさ)