第4回 哲学甲子園 受賞作品

優秀作品

「概念の檻」 吉武 快晴 氏(17歳)

 世の中には様々な概念がある。そして、私たちは概念を使って世界を表している。しかし、私は概念で世界を表すことは真に世界を表せてはいないと思う。概念は人間の「決めつけ」であり、概念を使っているからこそ真に世界を表すことができていない。これを、概念が存在しないことと「考える」ということの二つの視点から導いていく。
 まず、概念が存在しないということを、概念を二つの種類に分けて考察する。その二つは形を持つものにつけられる概念と形を持たないものにつけられる概念である。前者の例として、本、机、車などが挙げられる。これらの概念は形で表されるが「これが本当の本である」というような一つの決められた形は存在しない。また、形そのものを表す概念として三角形や円などがあるが、これらも存在することができない。例えば、紙に鉛筆で正確に三角形を描いたとしても、それは見かけ上正確な三角形が描かれているだけで実際には鉛筆の粉で凸凹な三角形なのだ。全ての三角形についても正確に観察すれば同じことが言えるだろう。このように、形そのものを表す概念は現実に存在することができないのだ。
 形がないものにつけられる概念として代表的なものに意識や時間がある。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉は有名であるが、これは本当に意識が存在することの証明になっているのだろうか。疑う自分を疑うことができないというのは人間の「決めつけ」であり、疑う自分を疑うことができないということを疑えてしまう。時間も同じである。過去、未来、現在があり、時間は過去から未来へ流れているということは人間の「決めつけ」である。過去と未来は知覚することができないのに、なぜそれらが存在するとしているのだろうか。正確に言えば現在すらも私たちは知覚できていない。形がないものにつけられる概念はそれら全てが人間の「決めつけ」でありその存在を疑うことができるのだ。
 これらのことから、私は全ての概念は存在しないと考えた。しかし、ここで大事な問題点があるのだ。それは、すべての概念が存在しないということも私の「決めつけ」であるということだ。これでは私の考えも存在することができないため、次に、なぜこのようになってしまったのかを「考える」ということに着目して考察する。
 私は、概念は「考える」ことから生み出されていると思う。全てのものは、また、ものでない何かでもそれらを考えた瞬間に私たちはそれらに自分の決めつけを与えて概念として吸収してしまうのである。それらは私たちに「考える」ことをされた瞬間に真の姿ではなくなってしまうのだ。つまり、「考える」ことをされなければそれらはそれら自身でいられる。私たちは「考える」ことをしてしまうがゆえに全てを真の姿で吸収することができない。私は全ての概念は存在しないと考えたが、私がこのように「考える」ことをした以上それが真実でないということは否めない。
 これまで私が考えてきたことは真実ではないという結果になったが、「考える」ことをしなければこの世界を真に表すことができるという結果でもある。これから私は、考えることをしないで考えるという難問に挑戦したい。
(よしたけ・かいせい)