私の母は数年前に病で倒れて命を失いかけた。私はその時何もできずに、ただただ自分の不甲斐なさを感じていた。このことがあって以来、私は自分の生きる意味を毎晩一人で考えるようになった。
それから数カ月後、私が考えていた内容は「自分自身の生きる意味」、「人が集団で生きる意味」、「地球が存在する意味」、「宇宙が存在する意味」と徐々に変化を遂げていた。私一人だけの生きる意味を考えても答えが出なかったためだ。「宇宙が存在する意味」はスケールが大きすぎて人が理解できるわけがないと、ほとんどの人は考えるだろう。しかし私は、人が生きる意味は自分自身が生まれることになった根源、つまり宇宙にあるのだから、宇宙の一端を担っている私達が理解できないとは言い切れないのではないかと考えた。だからこそ、私は「自分自身の生きる意味」を知るために「宇宙が存在する意味」を理解したかった。
そして私は、宇宙が存在する意味は「無い」、自分自身の生きる意味も「無い」という結論に辿り着いた。どれだけ意味を探しても、その意味には必ず矛盾が生まれてしまい、その意味が真実なのだとは納得できなかったからだ。私は全ての人が納得し、理解できる意味がほしかった。その答えが、自分自身の生きる意味は「無い」というものだったのだ。人は自分自身の生きる意味を探し、人が生きる意味は無いという結論に辿り着く。だからこそ、この答えが真実だと考えた。
しかし、それから数週間後、自分自身が生きる意味は「無く」、宇宙が存在する意味も「無い」のならば、なぜこの世界は「有」り続けるのだろうという新たな疑問が私の中で生じた。意味が「無い」のならば、この世界は「無」になってもいいはずだ。この世界のあるべき姿は意味に則って「無」という状態になることではないのか。私は、自分自身の生きる意味は「有る」のではないかと考えるようになった。
それから私は宇宙がどのように生まれたのかを調べた。私達が生きている宇宙はビッグバンと呼ばれる爆発によって生まれた。その前は「無」だったのか。今の宇宙ができる前には別の宇宙が存在していたのか。今の研究でも未だにどの説が正しいのかはわかっていないのだと知った。
私は、今の宇宙ができる前にも宇宙があって、その宇宙は今の宇宙とよく似ており、今の宇宙と同じようなことが繰り返されていたのではないかと考えた。私は、夢で見た景色と全く同じ景色を数年後に現実で見ることや、将来流行する曲のことを、まだその曲がリリースされていないときからずっと知っていた事があった。誰も信じてくれないような話だが、私自身が、今の宇宙と同じような宇宙がこれまでにもあり、この宇宙は時間を戻したかのように、同じようなことを新しい宇宙で繰り返しているのではないかと考えるのには十分だった。この仮説は全て憶測で、何も証明できるものがなかった。
しかし私はこの仮説のおかげで、この宇宙ができる前の世界、この世界の本当のはじまりを知りたいと思うようになった。「この宇宙が存在する意味」だけでも傲慢なことだとは思うが、奇跡に恵まれて誕生し、考えることができる私達人間だからこそ、「この世界が存在し続ける意味」を知るべきだと考えた。
その結果、私は一つの仮説に辿り着いた。それは、この世界のはじまりは「無」ではなく、はじめから「有」であり、この世界が存在する意味は「有」である世界を「無」にすることだ、というものだった。
宇宙を何度も生み、壊してきたであろうこの世界は、同じような宇宙を繰り返し、この世界のありとあらゆる全ての存在する意味をなすことができるだろう。そうしたら、この世界にはなんの意味が残るというのだ。この世界は結局意味を無くすのだろう。ならば、この世界はこの世界では成し得ないことをするために存在するのではないだろうか。その成し得ないことが、私はこの世界を「無」にすることだと考える。この世界がもともと「無」であったのならば、わざわざこの世界を「無」にする必要はない。もう一度この世界を「無」にした先に真実があるのかもしれないと考えたが、私には「無」以上にこの世界が成し得ないものがあるとは思えない。「無」とは、場所、時間、物質、つまりエネルギーもなにもかもないことだ。しかし、この世界が成し得ることができない状態を「無」という、一つの言葉で表せるのかはまだ曖昧な点であり、そもそもこの世界にはない状態なのだから、私達が認識することができるのかも不明である。
だからこそ私は、「自分自身の生きる意味」を明確にするためには、この世界が成し得ないことがどういうものなのかを定義して理解し、この世界で不可能なことを可能にするための努力をすることが必要なのだと考える。
(たつみ・さゆき)