第2回 哲学甲子園 受賞作品

最優秀作品

「世界で一人、『私』」 山﨑 優仁 氏(16歳)

 私は私が何者であるか分からない。なぜなら言葉にして言い表せないからだ。
 私とは一体何なのか。この疑問は倫理の授業中、エリクソンのアイデンティティについて学んでいたときに生まれた。とても初歩的かつ簡単なことで、しかし私にはそれが分からなかったことが悲しかった。自分自身という一番身近で、知りつくしているようで、しかし、言葉で表すのは困難な私について、今一度考えてみる。
 まず、私を説明するにあたって言葉がただ一人、私を言い表さなければならない。例えば、「新潟県の高校生」。これでは、私を含む約七万人が該当する。私一人を特定できないため、不十分といえよう。
 また、名前やマイナンバーなど私を完全に特定できるものでも、それらは私を識別、認識するための記号でしかなく、私自身の説明になっていないため不十分である。
 では、世界に二人といない私を表すには、一体どんな言葉を並べれば良いのだろうか。いや、そもそも言葉とは何なのだろうか。
 私は、未知のものを既知のものに置き換えることを可能にしたものだと考える。例えば、私の今手に取っているボールペンそのものは、「未知のもの」であり、それを「ボールペン」という言葉で認識した瞬間、それは「既知のもの」に置き換わるということである。目の前にあるボールペンと、それと同じ形、性能のものは世界にごまんとあるがそれらには眇眇たる違い、つまり個体差があり、実際には全く違う物体であるにも関わらず、同じ「ボールペン」という言葉で言い表せるのが言葉の凄みなのである。
 それは目に見えるものにとどまらず、人の心にも言えることである。
 人の感じる「悲しい」には無限の種類があり、「好きなものが食べられなくて悲しい。」「親友に裏切られて悲しい。」「大切な人を亡くして悲しい。」これら様々な細やかな感情はただ「悲しい」と言い表せてしまえるのである。
 この世は常に流動的な変化をしている。それは、ギリシアの哲学者ヘラクレイトスの「万物は流転する」、仏教の開祖ゴータマ・シッダッタの「諸行無常」にあるように、時、場所を超越する普遍的な感覚といえよう。私たちの細胞は日々死に生まれているように、この宇宙は常に少しずつ変化している。そんな全ての事物にそれぞれの本質を与えてしまっては、きっと私たちは世界を認識できないだろう。そこで似通った本質の物たちをまとめて一つの名前で呼んだのだ。つまり、ただ一つそのもの自体を表せる言葉は存在し得ないのである。言葉は、それぞれ持った概念を表すもので現実そのものは表せないのである。
 これまでのことを踏まえ、本題に戻ってほしい。「私とは何なのか」についてだ。前述したように、私が「唯一無二の存在」というのは明白である。そう、この世にただ一人、何一つ同じものが無いのが私であり、これは概念を表す言葉では表現することができないのだ。私たち人は全く新しく、前例の無いものが、「未知のもの」が怖い。だからこそ微妙な違いを無視して前例や、似たものに当てはめる。これが「言葉で表す」という作業なのかもしれない。私たちは一人一人違いがあるが、その違いを表すには言葉は全く不十分なのだ。
 ある人は私を「優しい」と、ある人は私を「苦手だ」と、単調な言葉の枠に無理やり押しこもうとする。私自身、そのような点に思いあたる節があり、他人事ではないのだが、私たちはお互いを単純化しすぎではないだろうか。
 本来、私たちは非常に複雑な存在であり、「優しい」とか、そういった言葉のとおりの人間は存在しない。きっと、自分の中で相手を「優しい」とか、理解のできる対象にして安心したがるのだろう。むしろ、私たちは「優しい」とかいった言葉のような単純で誰もが理解できるような存在になってはいけないし、そうなることに抗い続けなければならないのだ。私の存在を言葉一つで表させてはいけない。
 私は私が何者であるか書けない。なぜなら言葉は私を表すのに不十分だからだ。
(やまざき・ゆうじん)

選評 ▼

◆ 真正⾯からのアプローチが、⾼校⽣らしくて潔い。 語れるものから語り得ぬものへと、思索は遡っていく。 そして、期待したような結論は出ず、振り出しに戻るのだが、結論を焦らないところもよい。 そしていつか、⾔葉を⾒つけるだろう。
◆ 気づきには⼒がある。 その⼒に抵抗しないとその気づきの向こうには⾏けない。 ⾔葉の不⼗分さに抵抗し、⾔葉でもってそれをこじ開けようとする⼭崎さんの⽂章の気配がとてもよかった。 次は⾔葉の可能性をこじ開けてくれることに期待したい。