第1回 哲学甲子園 受賞作品

優秀作品

「世界 その枠組みはどこから来たか」 宮原 佐和 氏(19歳)

 難しい事柄がある。それを多くの人が理解できるように、簡略化した解説本を作る。すると、その内容は元の事柄と少々異なっている。
 そんな記事を読んで、私は、これを卵を持ち上げることに例えてみることにした。
 生卵はぬるぬるしている。だから、基本的に持ち上げづらい。お玉を持っている人なら、持ち上げることができるが、箸しか持っていない人にそれは難しい。では、誰にでも持ち上げることができるようにするにはどうしたらいいか。焼けばいいのだ。目玉焼きにすれば、たとえ爪楊枝しか持っていない人でさえ、容易に卵を持ち上げることができる。だが、その性質は最初の生卵とは違っている。
 なかなか上手く例えられたのではないだろうか。だが、ここでふと疑問に思った。「何故、上手く例えられたのだろう」
 当然だが、難しい事柄の理解と卵の調理とは、一般に考えてとても遠いことだ。しかし、わかりやすく例えることができる。大きな共通点があるのだ。この事例だけではない。とある詩は夕焼けで郷愁を表現しているし、ある絵画は社会に蔓延る不安を色と形で表現している。
 何故ほとんどの抽象的な事柄を、目に見える形で表現することができるのだろうか。これについて、私はこう仮定する。

 「難しい事柄の理解を卵の調理に例えたのではなく、卵の調理のイメージに沿って、我々は難しい事柄を理解しているからではないか」
 言い換えれば、抽象的な思考を目に見えるものに当てはめたのではなく、五感以前の原始的な感覚で捉えた目に見えるものの枠組みに則って、抽象的な思考を行ってるのではないか、ということだ。ちなみにこの抽象的な思考の前には、認識がある。大切なのは、思考の前に、目に見えるものの枠組みが存在するという点だ。そしてもう一つは、その目に見えるものの枠組みを、この世界の外から与えられたものではなく、今回のようにこの世界の中に存在するものとして捉えた時、我々は認識以前の世界に則った思考をしている、転じて認識以前の世界を見ることができているといえるのではないか、という点だ。
 つまり、我々が認識する以前からこの世界は存在する、だからものを考えることができる、という可能性があることを主張したいのだ。世界、枠組み、認識、という流れになるのではないかということを。
 しかし私には、枠組みが、認識する以前のこの世界から原始的感覚によって捉えられたものだ、と断言する根拠を見つけることができなかった。だからこれは問いにしかならない。だが、一つ根拠になりそうなことを記しておく。
 自分と他者が見ている世界は少し違う。たとえ同じ枠組みを得ても、認識は人それぞれだからだ。それに気づいた時我々は動揺し、自分が見ている世界を疑いだす。しかし、物を持ち、地面を歩くことができることからわかるように、根本から疑うことはできない。それはやはり、我々に備わった原始的な感覚が、認識以前のこの世界を、そこから得られる枠組みを、捉え続けているからではないだろうか。だがそれも、そういった枠組みを世界の外から与えられたのだ、と言われればそれに過ぎない。

選評 ▼

◆哲学という暴れ馬を必死に乗りこなそうとしている姿勢を買う。もっともっと考え続けていけば、いつか乗りこなせるはずだ。哲学への信頼感もよい。
◆思考の向こうにあるもの。目をそらさずにじっと自分の思考に向き合う姿勢がすばらしい。上手く言うことや論理的な語り口にとらわれず、自由なスタイルで考え続けてほしい。
◆情緒の介在しない、考えたことだけを文章にする悦びが感じられる。認識以前に、世界が「ある」ことへの信頼が伝わってくるのは、作者の哲学への信頼ゆえか。ただ残念なのは、存在論や認識論を勉強した型が透けて見えてしまっていることで、もっと大胆に、孤独に、自分の言葉で考え続けていって欲しい。この作者ならではの文章を、いつか読めることを強く期待しています。